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「信じること」について

あなたの信じるモノは何ですか?

「信じる」という行為は、こよなく尊いものだと思います。年齢、経験を重ねるごとに「信じること」がいかに難しいかを思い知らされます。果たして、ぼくたちはどれだけピュアに「信じる」ができているのでしょうか。

「信じる」に抵抗が生まれるのは、騙された経験によるものです。「騙す」とは言わないまでも、約束を破られたり、裏切られた気持ちになった過去に紐づきます。その瞬間から、自然発生的に「疑い」が起こります。次に失敗しないため、次に損をしないため、次に傷つかないため。「疑い」は、自分の身を守るための危機管理センサーなのかもしれません。

「信じる」にはリスクがあります。騙される、破られる、裏切られる可能性があるからです。概念を信じやすい理由は、それらのリスクが低いからであるように思います。たとえば、神さま、音楽、愛なんかは比較的に信じやすいですよね。でも、それが「人」となった途端に難しくなる。それは相手の意志や性質が大きく関わってくるからなのではないでしょうか。

「この人に、この仕事を任せることができるか」

それは、その人の技量や実績や社会的な地位などが大きく関わってきます。目の前の仕事の内容と、その人の「現在」からじゃばらになって伸びる「過去」に基づき判断をします。

「この人は、浮気をしないだろうか」

それは、その人の性質と愛情の質に大きく関わります。それもまた、その人の「現在」と「過去」のデータを判断基準にします。

「この人に、お金を貸してもいいだろうか」

その人の現状(お金を借りる理由)、人柄、経済力。その人の「信用」は、いつだって「過去」と強く紐づいています。

「信じる」って何だろう?

とても不思議です。信じてもらえると、とてもうれしい気持ちになります。信じてもらえないと、とても悲しい気持ちになります。信じることができると、とても心強い気持ちになります。信じることができないと、とても心細い気持ちになります。

「信じる」って、すごく大きな力なのだと思います。信じた側にも、信じられた側にも、強く影響する力。それは、つまり「信じたわたし」だけでなく、「信じられたあなた」の力まで引き出すということ。突然、「抜擢」された時に、普段以上の力が出たりすることは、そういう見えない力が働いているからだと思うのです。人のことを信じることができたらいいね。

信じることができる自分でいること、そして、信じてもらえる自分でいられること。そうありたいよね、うん、そうありたい。

疑うことは決して悪いことではないけれど、そのことによって可能性を潰しているのだとしたら、とても淋しいことのような気がします。でも、人は臆病だから。守るべきモノがたくさんある人は、リスクのある方を簡単に選ぶことはできないから。きっと仕方のないことなのだろうけれど。

たまに何かを信じた人が痛い目に遭って、別の誰かに「疑いなさい!」と言われている光景を目にするのだけれど、それって誰が悪いのでしょうか。きっと「疑いなさい」と言った人のことばは正しいのだろうけれど、きらきらとした大切なものが消えていくような気もして。「じゃあ、信じたことによって騙された人をあなたが守ってあげれるのですか?」と言われたら、そんなことはできないし、「この世界から嘘や騙しを失くす」なんていうことは夢物語だということはわかっているのだけれど。

そうなると、やっぱりエビデンスを集めて、論理的に検証した上で「信じる」に行き着くことがベストなのかもしれません。それを度外視して「信じる」を信じるためには、覚悟がいるのかもね。「信じる」には責任を持たなくちゃいけないんだ。

「信じる」って難しい。何でもかんでも信じることはできないけれど、「信じる」が少しでも増えればいいと思う。この文章を書きながら、たくさん考えたけれど、でもやっぱり難しいということがあらためてわかっただけで。そう思うほどに、「信じる」という行為は、尊いものだと思います。



「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。