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『Joker』を生み出したもの

遅ればせながら映画『ジョーカー』を観た。

この作品でアカデミー主演男優賞を受賞したホアキン・フェニックスの演技はすばらしく、本当にアーサー・フレックというピュアで哀しい一人の人間が実在するかのように見えた。ただ、人を楽しませることが好きだった不器用でチャーミングな男の姿が。

彼のユーモアはことごとく失敗する訳だが、「人生はクローズアップで見れば悲劇であり、ロングショットで見れば喜劇である」というチャップリンの言葉にあるようにスクリーンを眺めている分にはコメディとして映る。しかし、ストーリーが展開するにつれ、観客は彼の心情に引き込まれ、いつしかそれは悲劇として鋭利な味わいに移ろっていく。

途中から、観客はアーサーを見ているようでいて、それに相応する人物を重ね合わせるようになる(多くの場合、それが自分自身であり、あるいは恋人であり、家族の誰かであり、友人の誰かである)。それは「自分の人生とは関りがない」とは言い切れない状況として、物語の臨場感を増していく。

好きなシーンはたくさんあるが、長くなるので書くことを一つに絞る。僕が感じたこの映画のテーマは「想像力の欠如が引き起こす災い」だ。それは、現代社会への問題提起だと言える。

アーサーはピエロとして働いているのだが、人とコミュニケーションがうまくとれない。普段から薬を飲んでいることやネタ帳に書かれた文章のスペルミスから察すると、本人の努力ではどうしようもない領域にいることは想像に難くない。ただ、彼はユーモアによって人と繋がろうと何度も試みる。街で子どもと目が合えば、相手を笑わせようとするし、仕事でもお客さんを笑わせようと試みる。しかし、それはことごとく失敗する。いくつかの不運が重なり、彼は社会と断絶してしまう。

アーサーがジョーカーに変わった分岐点だ。

誰しも世の中から受け入れられなかったり、人から拒まれたりした経験はあるはずだ。その時の感情は異質であるから、見る者はすぐにアーサーと自分自身を結びつけることができる。カタルシスにも共感してしまう。「映画の中のあのピエロは、いつの日かの自分かもしれない」と錯覚する。

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世の中と断絶した彼が、唯一人と繋がれる手段が「暴力」だった。彼は、「暴力」によってコミュニケーションをはじめる。恐怖を与えることで、相手との繋がりを実感する。ユーモアではあれほど黙殺されてきたというのに、恐怖はいとも容易く相手から反応を獲得できた。僕にはアーサーの行いが、世の中への復讐ではなく、彼自身と他者が繋がっていることの確認作業のように見えた。

想像力の欠如が引き起こす災い

この言葉はアーサーに向けられているものではない。彼の周囲に向けている。彼に必要だったのは、己と他者を繋ぐ存在だ。殺人を犯す前の彼は、ピュアに「笑い」が好きな素朴な男性だった。もし、彼が他者と繋がりを継続できていたとしたら、ジョーカーにはならなかっただろう。

これは想像力の問題である。アーサーの考えていること、伝えようとしていることに耳を傾け、想像しようと試みた人間が一人でもいただろうか。彼の言動や表情を気味悪がり、「存在しないもの」として扱ったのは誰だろうか。紛れもなく、彼の周囲の人間だ。これは映画の話だが、他人事ではない。

僕たちは、相手の心や声に耳を傾け、想像しているだろうか。あの映画に共感した人が多いということは、多くの人の心にアーサーと同じ成分が含まれているということを意味する。彼がジョーカーになった理由は、積み重なった不運でも、犯罪でもない。人との断絶、コミュニケーションの欠如にある。

全員とは言わない。そこに一人でも、彼と他者を繋ぐ存在がいたとしたら。世界は変わっていたに違いない。一人ひとりが想像力をもって、コミュニケーションをサポートできる世の中を実現するための問題提起だ。少なくとも、僕はこの映画をそのように観た。

他者への想像力は人間のデフォルト機能として必要不可欠である。



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