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「教育」とは対話である

「教育」について考えています。

礼儀、知識、技術を教え育てること。親と子ども、先生と生徒、上司と部下、師匠と弟子……「教育」から発想できる関係性はいくつかあります。ただ、関係性によってそのニュアンスは異なります。たとえば、“先生と生徒”と“師匠と弟子”はよく似ているけれど、どこか違う。この微かな差は何でしょうか。

わたしは「学ぶ側の“積極性”の違い」だと考えます。“生徒”よりも、“弟子”の方が学習に対して積極的な気がします。あるいは、“先生”には教える責任がありそうですが、“師匠”には薄い。「手取り足取り」というよりも「見て盗めよ」という香りがします。

そう考えると、「教え育てること」の向かい側には、「学び習うこと」が存在することに気付きます。つまり、「教育」を考えることは、同時に「学習」について考えること。教育における大きな課題は「受け手の能動性」です。生徒も部下も、言われたことだけをやっていればいいわけではありません。この“能動性”を引き出すために、先生や上司は苦心します。ただ、教える責任を持たない“師匠”は、それほど困らないかもしれません。能動性のない弟子は、概念上「存在しないこと」とほとんど同じ意味ですから。

さて、このように考えてみると、新たな視点が生まれます。「学習」に焦点を当てると、そこに今まで見えなかった「教育」が浮き上がってくる。自分が学んでいる瞬間、そこに“先生”が存在することに気付きます。それは友人かもしれないし、本かもしれないし、ポッドキャストかもしれないし、飼っているペットかもしれません。

つまり、「教育」という関係性は肩書云々で決まるものではなく、誰とでも築くことができるのです。家族でも、パートナーでも、映画でも、陶磁器でも、一輪の花でも。そこに学ぶ姿勢が生まれた瞬間、結ばれるのです。わたしは「これも対話である」と考えます。

わたしたちは自らの「学習」を通じて、森羅万象から「教育」の姿勢を観察できます。“反面教師”という姿で、教えてくれる事象もあるでしょう。学び習うことが上手な人は、教え育てる美点を採集することが上手です。それを意識してアーカイブしてみてください。自分への影響だけでなく、本質はそのままに他者に合わせた形で変容させる柔軟さが生まれます。それは、優れた宗教家が、喩え話や説法が上手なことと似ています。

わたしの考える「対話」のスタンスと、「教育」はとても近いところにあります。わたしは「教育者」としての肩書はありませんが、相手が学習する姿勢を現わした瞬間、いつだって教育者になり得ます。誰もが「潜在的な教育者」なのです。

最後に、「学習」のヒントを。

人は「価値がある」と思ったものからでないと、積極的に学ぶことができません。あなたの好きな人、モノ、コトを思い返してみてください。当然のことながら、そのすべてに「価値がある」と思っているのではないでしょうか。今まで学んできた知識や技術にしてもそうです。それを獲得できたきっかけは「価値がある」と判断したからでしょう。もちろん、「価値がある」と思えなくても学習することはできます。ただ、そこに“積極性(能動性)”は生まれません。

大事なことは「価値がある」と思える感受性。つまり、世界や物事をおもしろがって捉える“好奇心”です。感受すること、解釈すること、味わうこと。“受け取る技術”を磨いてゆきたいです。

あらゆるものから学び習うことができる状態を整えることこそが、本当の意味での「教育」ではないか、とわたしは思うのです。



「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。