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教養のエチュードTalk.3〈ワタナベアニ〉前編

ワタナベアニとの対話
〈前編〉

ワタナベアニさんに話を聴いた。とても尊敬している人だから緊張した。アニさんの言葉は錐のようだ。力強さと繊細さを両立しながら、螺旋を描いて奥の方まで刺さる。言葉選びと言葉遣いに慎重な分だけ、思考はクリアになる。

その思考も、美意識も、ユーモアも、ぼくは好きで。「好き」というか、それは尊敬であり、憧れだ。見えているもの、あるいは、見えていないものをエレガントに言葉にしていき、新しい世界を広げていく。その軽やかさと時折見せるシャイネスは艶っぽい。アニさんの文章を読みはじめる前と、読み終えた後では、目の前に広がる景色の「見え方」が異なる。アニさんの視点が身体の中に入ると(それが一瞬のことだとしても)、「生きること」が少しだけ豊かになる。それは旅をする体験に近い。言葉の力をあらためて実感する。

インタビューの内容は2020年1月31日に刊行された『ロバート・ツルッパゲとの対話』について。そして、それは触媒に過ぎず、ロバートの言葉の奥にあるアニさんの思考へと移ろっていく。


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思考するための時間

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俺のことを全然知らなかった人が買ってくれることがある。
そういう意味では、「本」というのはおもしろいね。

嶋津
当然のことながら『ロバート・ツルッパゲとの対話』には、本が刊行される前までのことしか書かれておりません。以降の話について聴かせてください。

アニ
本を出したことによって名刺代わりになったね。俺が本を出すことを知って買ってくれた人、それから本屋でたまたま手に取った人、中には哲学の教授が読んでくれたり。たとえば、哲学の授業で教授が生徒に対して「ヘーゲルはこう言った、サルトルはこう言った、あとロバートはこんなことを言っていた…」というやりとりがあった話なんかを聞いた。そういうことがおもしろくて。

世の中に出る前は、純粋に「哲学」というカテゴリーに引っかかって手に取った人から、「哲学はこういうことじゃないだろう」とネガティブな意見で突っ込まれることを想定していた。だけど、それが全くなかった。専門家からも「ああやって哲学を書くとおもしろいね」という感想をもらったりして。もともとそういう懐の広さが「哲学」にはある。

あと、若干「オタク」の悪口を書いたから、オタクからの反論があるかと思っていたけれど、あれはロバートが言ったことだから俺に抗議は直接来ない。

嶋津
本書が刊行された直後、コロナウィルスによって世間が騒然となりました。コロナ以降のロバートの話にも興味があります。

アニ
「コロナを想定して書いているように見える」ということは結構言われた。
逆に言うと、「毎日会社に行っていたけれど、〝会社に行く〟とはどういうことなのか?」というような哲学的疑問を無視できない環境にみんなが追い込まれた時だったからなのかもしれないね。

嶋津
アニさんにとってのコロナはいかがでしょうか?

アニ
何も変化はなかった。会社に務める人は「会社に行かない」という大きな変化があったけれど、俺はずっと仕事場にいる。撮影はなくなったけれど、文章を書いたり、デザインの仕事はいつも通りあったから忙しくもしていた。

これまでにいろんなことをやってきてよかったんじゃないかな。それはリスクヘッジということでもあるんだけど。いろんなところに収入源があるということは悪くなかったみたいだね。別に「そうしたい」と思ってやったわけじゃないけれど、やりたいことをやっていたら自然とそうなっていた。


ワタナベアニのルーツ

家にはたくさん本があった。あと、叔父がアートディレクターをしていたこともあり、海外のデザイン関係の本が家にたくさんあった。英語で書かれているから読めないんだけど、その当時のアメリカの広告代理店がつくっていたのはビジュアライズされたもの───ビジュアルランゲージ。アメリカという国は多言語国家で、ビジュアルだけで言いたいことを伝える。だから小学生の俺にもわかるわけだよね。それがおもしろくて、ずっと見て育った。十八歳で美大に入ろうと思った人とは勝負になるわけがないよね。

インタビュー内でもアニさんは「何屋さんかわからない」と人から言われると話した。今日に至るまでいくつか職業を移していることは、アニさんの思考の移ろいとリンクしているように思う。決してネガティブな要素ではなく、そこには明確な意志が存在するはずだから。その言葉を辿るうちに、それは「自分にしかできないこと」について考える大きな入口であったことに気付いた。

嶋津
幼い頃から本を書きたかったと伺いました。ただ、最初に選ばれたお仕事は広告代理店ですよね。

アニ
そこは日本ではじめてできたデザイン事務所だった。和田誠さんや篠山紀信さんが在籍したプロダクション。その時、デザインをしていたからそこに行ってみたいという想いがあった。ただ、トヨタやJALなどナショナルクライアントばかりをやっているから、つくるものが全てマジメなんだよ。

その前は、青山にある小さなプロダクションにいたけれど、そこにいた時の方が変な仕事をしていたと思うよ。そこからその老舗のプロダクションに移るわけだけど、隙を見てタレントと仕事をしたりしていた。もちろん会社に黙ってね。十年近く勤めて辞めたんだけど、あまり広告自体が好きじゃないんだよね。

嶋津
ただ、そこで過ごした十年間はアニさんの大部分を構成しているような気がします。

アニ
それはあるね。若い頃は、広告などのマスの仕事をしていた。自分がディレクションしたCMがテレビで流れたり、新聞の一面に載ったりすることがおもしろいことだと思っていた時期もあった。ただ、その考え方はやっぱり幼稚で。自分のつくったものが新聞や雑誌に載った、テレビで流れたと騒いでいる人って馬鹿っぽいよね。

理屈を言えば、新聞社に対して数千万円出せば、実は誰でも掲載できるんだよ。「そこに載る」ということは「クライアントに選ばれる」ということでしかなく、能力ではないんだ。俺がいた会社はたまたまそういうことが仕事として発生する環境だったからやっていたけれど、そうではなくて、たとえば新聞や雑誌やテレビが俺のやっていることに興味を持って取材に来た時にそこではじめて「載った」ということになる。

媒体を「買って」そこに「載せている」ということは、駐車場を借りていることと同じだから。そこにおもしろさを感じなくなったんだよね。

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嶋津
アニさんの文章に惹かれる者として、言葉の仕事より先に「アートディレクター」というビジュアルの仕事をされていた理由を聴いてみたいみたいという想いがありました。

アニ
そこに対して自分の中ではあまり垣根がないんだよね。本の中にも書いたんだけど「絵を見ている」ということはビジュアルではなく、言葉を見ていて。たとえば、「金色の髪をしていますね」といった時に、色としての「ゴールド」ではなく、文字として「金色の髪」という言葉が浮かんでいる。

ビジュアルを突き詰めていくと、「文字に鈍感な人はビジュアルにも鈍感なんじゃないか」という気がした。言葉が好きだったから、デザインやその他のいろんなダメな部分を企画書でごまかすこともできた。いいことを書いてプレゼンするというのが俺のテクニックだった。

嶋津
肩書が「変わる」というよりも、アニさんの場合はアートディレクター、写真家、作家と「船を乗り移る」イメージですよね。

アニ
そうだね。どこかへ移動していることは同じ。手段が違うだけでやっていることの根っこの部分は変わっていない。

嶋津
それがより個人の力で動く船になっている。

アニ
原始的になっていく。豪華客船に乗っていたけれど、それがカヌーになり、手漕ぎボートになり……自分だけの動力に頼るものに変化しているとは思うね。

アートディレクターの立ち位置は、映画でいうと監督みたいなもので。カメラマン、コピーライター、スタイリスト、ヘアメイク、モデルを選ぶ総監督だから、すごい仕事をしているんじゃないかと勘違いしてしまう。だけど、それは音楽でいうとミキサーの仕事に近いんだよね。調整室に座ってフェーダーを上げたり下げたりしている。「ギターの音が少し歪んでいるから下げなきゃ」みたいに。そのことに対して「世界をコントロールしている」という感覚を抱いていた時期もあった。でも、歪もうが何をしようが、ギターを弾いている人が一番気持ちいいんじゃないかと思った。

それがカメラマンで。年齢を重ねてくると、人のやっていることを収めていくアートディレクションの仕事がつまらなく感じてきた。無神経に大きな音を出して嫌がられるくらいのことをステージ上でやりたい。そう思って写真を選んだ。本を書くことも、自分以外はその作業に参加していないので、評価も自分だけにダイレクトに伝わる。

嶋津
「いかに自分の存在には価値があるか」ということが哲学の在り方として表現されていたと思うのですが、そこにつながっていくイメージでしょうか。

アニ
そうだね。ただ、それを自分ができているのかというとそれはあまり思っていなくて。それよりも、「能力のある人が諦めていく」という光景を見るのが良くないと思っていて。

映画監督の平林勇が俺と一緒に仕事をしていた時期があった。何を頼んでも優秀で、とにかく仕事ができる。「この人はマジメな上司についていたらダメになるか、会社を辞めるかの二択だろう」。そう思った。それってもったいないことだよね。誰もが自分の能力の上限まで好きなことができる世の中になるといいなって。

ただね、中には言われた通りに動く方が楽な人もいる。波風立てずに定年まで過ごす人もいて、そういう人はそれでいい。だけど、俺は「やりたい」という人を応援したいと思うんだよ。

今の世の中では、「勝たなきゃいけない」という風潮があるよね。俺が思っているのは勝ち負けではなくて、「失敗したけれど、やってよかった」ということなんだよ。それを後押ししてくれる人があまりいないよね。すぐに「儲かりました」とか「秒速で何億円稼ぎました」という話になっていて。それってただの自慢話のように映る。全ての人がお金ほしさにやっているわけじゃない。

一つだけ言うと、「お金を持っている人が偉い」ということを認めてはいけないと思う。「お金が欲しい」というのは「セックスがしたい」と同じだと思うんだよ。「セックスをさせろ」という人にセックスをさせないでしょう。それを言えてしまうのは、満たされていないからだと思うんだよね。足りていればそんなことは言わない。


世界を広げる

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嶋津
本書は「ロバート・ツルッパゲ」という人格をつくり、彼を介して対話が進んでいきます。そのことを通して、アニさんの中で異なる視点(ロバートの視点)が生まれたと思うのですが。

アニ
哲学というのは「世界を広げること」だから。たとえば、自分の知っている世界が目の前のテーブルのサイズしかないとする。その時、隣のテーブルにも人がいることを見て、はじめて知らない世界があることに気付くわけだよね。だけど、自分がずっとこのテーブルの前で座ってじっとしているだけだとしたら、世界はこのテーブルしかないんだよ。

家と会社の往復をしていると、その小さい世界に怨念が凝縮されていくんだよ。楽しいことも、嫌なことも全てその小さな世界の中でしか起こらないからね。たとえば、奥さんや隣人が「ゴミの出し方が悪い」と言う。でも、そんなのナポリに行くとゴミの収集車が半年来ないこととかが平気で起こるわけで。異なる世界があることを知ると、こちらの世界が許せるようになる。

嶋津
そういう意味ではやさしくもなれる。

アニ
そう。いろんな判例があると裁判の精度が上がるのと同じ。

一度、東京の地下鉄でイタリア人の集団の声をかけられた。電車のホームでアナウンスが続いていることに対して、「これは何を言っているの?」って。「〝電車が一分遅れて、虎ノ門の駅に到着します、申し訳ございません〟だって」と伝えた。すると彼らは大笑いをした。俺もイタリアの電車で何度もひどい目に遭っているからわかるんだけど(平気で五時間くらい電車が止まる)、イタリアの人は「なぜ一分遅れたことでこんなに謝っているんだ」というのがバカウケなわけだ。

日本人のサラリーマンだと、五分遅れて「遅延証明書が…」とか言ったりするけれどそうじゃないんだよね。海外でもどこでもいいんだけど、自分の生活とは違う生活をしている人を見るということは大事だね。

嶋津
同時に、本の中で「自分だけの体験をすることで価値を上げていく」という風に読み取ったのですが。

アニ
そうだね。それは、本を読むとか人から聞いたというのも意識の一つではあるんだけど、やっぱり「リアルなもの」だよね。体験したことは、全然強さが違う。自分がそこに入っていくことが大事。

「ワタナベアニ」と「ロバート・ツルッパゲ」は別人格である。よく似ているけれど、アニさんの話を聴いているとそれが別の人間であるということがわかる。アニさんの視点にさらに客観性を加えて、あるいはロバートの視点から浮き上がる光景。複数の視点を獲得することは、自分の世界を広げていくことなのかもしれない。

リアルと体験

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「自分にないもの」を受け取ろうとすると、誰と話していてもおもしろい。

これは書くか迷ったことなのだが、大切なことなので言葉に残しておきたい。インタビューの中でアニさんは「そもそもオタクって嫌いなんだよね」と話しはじめた(それは本書にも書いてある)。よくよく理由を聴いてみると、「オタク」というのは価値を定める上での一つの喩えに過ぎない。その言葉の真意を追っていくと、リアルな体験を獲得することの重要性に辿り着く。

アニ
オタクって「ないもの」を好きになるじゃない?───世の中に存在しないもの。アニメやイラストを「認めない」ということではないんだけど。ただ、熱狂的になり過ぎるとリアルなものを無視する傾向にあるよね。

そこが日本の独特の幼稚さでもある。一度、パリでオタクのフェスティバルに行った。あと、ミラノでもコスプレ集団に遭遇した。みんなカッコイイんだよ。メイドの服を着ていても、ヨーロッパ人だから「おもしろい」感じにはならない。あれは日本人がメイドの格好をするからミスマッチが生まれるんだよね。ヨーロッパではメイド文化が本職として存在するから着こなしてしまう。

嶋津
スタイリッシュになってしまう。

アニ
外国人が浴衣を着ると裾が短くなるよね。日本人から見るとそれがおもしろく映るわけだ。その逆のことだよ。俺がミラノで会ったカップルは彼氏が医者で、彼女が弁護士だった。平日は仕事をしていて、土日だけ二人でオタクを見に行く。ヨットに乗って休日を過ごしたりもするのだけど、同時にオタクも趣味でやっている。日常生活はリア充なんだよ。日本人はそういうリア充に足を突っ込めない人が生きていける場所としてオタクを選んじゃっているから、そこがカッコよくない。

嶋津
選択肢がある中での「オタク」ということではない。

アニ
そう。10あるうちの1つに「オタク」があるのであればわかる。

俺はどこかに行って、「何かを見る」ということをすることが一切ない。有名な美術館や劇場があろうが、何も見る気がない。それはね、死んだものを見たくないからで。たとえば、それがベラスケスであるとかレオナルド・ダ・ヴィンチであるとか言っても、死んだ奴の描いた絵なんてどうでもいい。それより、目の前で生きているカフェのおばちゃんを見ている方がおもしろいし、写真も撮れる。


〈後編〉へとつづく


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【読書感想文】


「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。