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いのちのディンドン

ディンドンと鳴る。

一つ屋根の下、いのちの鼓動がアンサンブルをはじめる。それは、一本の大木に集まった蛍たちのように。それぞれの間合いで、ちぐはぐに発光していた彼らは、光の中で互いに呼応しはじめ、やがて一つの点滅となる。家族とはそういうもののような気がする。

共に生活を送る仲間たち。それは人間だけでなく、愛するペットたちも同じことで。ぼくたちは、いのちの鼓動を共鳴し合って生きている。それぞれのディンドンが、次第に重なり合い、大きな一つのディンドンとして響く。

誰かひとりが具合を悪くすれば、すぐにわかる。元気のある者が、力をわけたり、苦しみを受け取ったりして、一つのディンドンは調和する。家族とは、共に生きる一つの生命体なのだと思う。

妻を大切にすることや、愛犬を抱きしめることや、ハリネズミが心地良く過ごすための気配りをすることは、すべて自分を大事にすることと同じ意味なのかもしれない。同時に、家族の誰かの苦しみを黙殺することは、自分に傷を与えることと同じ意味なのだと思う。

たびたび、誰かの苦しみを受け取った別の誰かが、小さなディンドンの音を絶やす。マングローブの木が、引き上げた海水の塩分を一つの葉に集中させて落葉させ、他の葉を守ることと似ている。家族という生命体を守るために、小さないのちが痛みを引き受けて消えてゆく。

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義父が大病した時、庭の大きな桜の木が枯れた。妻が医者から「五年のいのち」だと言われた日から五年経つ頃、義母が亡くなった。単なる偶然かもしれないけれど、一つの大きなディンドンのために、ぼくたちは健やかに生き続けたいと強く想う。

ぼくが落ち込んでいる時、愛犬たちはぼくの膝の上にのぼり、丸くなって静かに眠る。彼や彼女には、わかっている。そこにことばはなくとも、ディンドンの揺らぎを感じとって、波を調整してくれる。

ぼくも彼らにとってそのような存在でありたい。めいっぱいわがままを言える相手でありたい。彼らの歓びを、彼らのいのちを、力いっぱい抱きしめたい。彼らの代わりに涙を流せる存在でありたい。

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家族は、ぼくにとって一つの大きないのち。

いのちとは言わずとも、志を共有した仲間や、気の許せる友だちとも、ディンドンを共鳴できるといいな。一緒に笑えたり、穏やかになれたり、安心できたり、刺激をもらえたり。互いに共鳴しながら、「これから」をつくってゆく。

ぼくたちは、互いに支え合いながら、影響を与え合いながら、生きてゆく。力いっぱいディンドンを響かせよう。



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