毎日、僕が文章を書く理由
光を見たいわけではなく。
例えば、煌々とした灯りそのものに目を凝らすのではなく、炭酸水の入ったグラスをかざして向こう側の光を眺めたい。「何か」を介して、無限のプリズムを紡ぎながら煌めく世界を体験したい。「光」を見たいわけではなく、介した「何か」が移ろいながら輝いていく、おぼろげで、儚い光景に惹かれていく。
これは、もしかしたら全てのことに言い得るんじゃないかな。本を読むのは、「すばらしい物語と出会いたい」からではなく、その出会いを通して「自分の心が変化する歓び」にある。その変化は予測できないし、そこに整合性はない。人と話すこともそう、料理を食べることもそう。交わった瞬間に生まれる小宇宙が楽しい。
それは、「自分」のことだけでなく、別の「誰か」でもいい。炭酸水で満たされたグラスでも。今日も僕は文章を書く。小説を書いたり、エッセイを書いたり、詩を書いたり。ほとんどが意味のないことばかり。例えば、専門的な話やビジネスの話を書くと、それを読んだ人はその情報をすぐに価値に変えていくことができる。スタートとゴールがとてもわかりやすい。
でも、小説やエッセイや詩───カッコよく言えば「アート」というものは、スタートとゴールがわかりづらい。でも、それを介して、受け取った人が「明日の仕事がんばろう」と思えたり、悲しい気分が少しで和らいだりすれば、それはとても価値のあることだよね。直接的ではないけれど、どこかの誰かが前向きになるための「きっかけ」になれるとうれしい。
そういう意味では、「アート」の可能性は無限大だ。一匹の蝶の羽ばたきが、世界のどこかで大きな竜巻を起こすように。その「きっかけ」は、見えない形でワープする。実際には緻密な関係性ではあるのだけど、それはロジックでは説明できない。だから、よけいに惹かれる。
「アート」だなんて、大それたことを言ってしまったけれど。でも、僕はちゃんとしっかり胸を張れるように日々自分の文章を書きたいし、そういう風に生きていきたい。
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文章は決して情報を伝達するためだけの道具じゃない。心を動かすことができる。時には、その人にとっての一生の宝物になったりもする。そういう文章と出会いたいし、僕もそんな文章を一行でも書けるような生き方をしたい。
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