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親ガチャ、子ガチャ

「親ガチャ」ということばがある。

“ガチャ”といえば、回転レバー式のカプセルトイを思い出す。最近では、スマホゲーム内での「ランダムにアイテムが手に入るイベント」として一般的に知られている。要は、プレイヤーの意志では選べないくじ引きのこと。

生まれてくる子どもは、親を選べない。レアアイテムだと当たりで、ありきたりなアイテムだったらはずれ。アイテムの場合はそれで良いのかもしれないが、親の場合は子どもに対して苦しみを与えるタイプもいる。+か0かの二択ではなく、-も存在するところがまたギャンブル性の高さがある。

「プレイヤーの意志が介在しないギャンブル性の高いイベント」ということで、“親ガチャ”と表現するのだろう。品がなくて、むしゃくしゃする。この“むしゃくしゃ”ついでに、文章を続けてみる。“親ガチャ”があるならば、“子ガチャ”も存在する。当たりもあれば、ありきたりのはずれもあり、親を苦しめる悪魔もいる。

わたしはどうも内向的な性格なので、「自分が親をどう思うか」よりも「親が自分をどう思うか」の方が気になってしまう。考えてみると、両親の引いた“子ガチャ”は大、大、大の、さらに大きな「大」をつけた“はずれ”だった。

生まれると同時に大病が発覚し、すぐに集中治療室に運ばれる。三歳の頃に病が再発して、全身麻酔の大きな手術を二回体験し、一年間入院した。家族を心配させたし、たくさんお金もかかったし、そのせいできっと両親はけんかもしただろう。「息子のせいで」とは言わないけれど、内心きっと思うところがあったはずだ。やり場のない憤りは、自己嫌悪に変わり、それは消えずに残り続ける。そういう意味でいうと、わたしは悪魔のような大はずれ“子ガチャ”なわけである。

そんな大はずれ悪魔を、大人になるまで育ててくれた両親は、わたしにとって神“親ガチャ”だ。序盤にこんな大当たりが起きてしまったのだから、残りの人生はその“当たり”の貯金で細々と暮らしていくしかない。

ただ、両親に「“子ガチャ”の結果はどうだった?」と訊いても、「大はずれ」とは答えないだろう。たとえ、嘘でも「当たり」だと言ってくれるような気がする。わたし自身は「はずれ」と思っていても、両親にしてみれば「当たり」なのだ。

つまり、「当たり」か「はずれ」を決めるのは自分自身。それも自分のことではなく、相手のことだということを忘れてはいけない。自分が、相手を、評価しているのだ。それも“ガチャ”ということばを借りて、驚くほどカジュアルに。わたしは、とても奇妙に感じる。評価などしない方がいい。するとしても、慎重であるべきだ。

わたしには子どもはいない。子を持つ親の気持ちは、全くわからない。同じ土俵で意見し合える立場ではない。でも、少しだけ“親”の気分を味わえる瞬間がある。一緒に暮らしている仔犬の存在。

彼は、大病を患っている。ブリーダーに渡された時から、すでにからだは弱り切っていた。彼を“子ども”と置き換えてみても、わたしの引いた“子ガチャ”がはずれだったとは決して思わない。それよりも、彼に「最高の“親ガチャ”だった」と思ってもらえるような関係性を築きたい。

これが自然な在り方なのではないだろうか。親と子の関係性。それは、自分が相手を評価するのではなく、相手にどう思ってもらえるか。それは、時間もかかる。たくさんコミュニケーションもする。そうやって、育んでいくものではないだろうか。

うまくいくかはわからない。
失敗しながらも、互いを想い合って、関係性を育んでいきたい。
共に生きるとは、その複雑性の中で養われてゆく覚悟なのだ。

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