機微を豊かに
コミュニケーションの在り方について日々、考えています。
なかなか人は人をゆるすことができません。それは、他者にしても、自分にしても。「ゆるせない」状態では、相手のメッセージを閉め出してしまいます。つまり、「ゆるす」ができないと、聴く耳を持つことができないのです。
わたしが元日に掲げた一年の目標は「ゆるす」でした。
人間の未熟さ、矛盾を抱えた部分をまず「ゆるす」ことができなければ、相手の話に耳を傾けることができない。それは自分に対しても同じです。自分をゆるせない人は、自分のこころの声を黙殺してないものにしてしまいます。対話は、「聴く」からはじまるのです。
多様性が謳われる社会で、一人ひとりがそれぞれの正義によって他者を攻撃する場面をよく目にします。その争いには対話が不在です。言い換えれば「聴く耳」がない。聴くためには、異なる正義を受け止める(存在をゆるす)必要が出てきます。そこには、筋の通っていない言い訳や矛盾した考えもあるでしょう。そこに感情的になるよりも、それが自然体であるのだと捉え直した方が健全です。それが人間というものではないでしょうか。
先日、「言語化れんしゅう」の中でこのようなお題を出しました。
みなさんから届いた答えには「未熟なところ、矛盾を孕んでいるところ、忘れるところ、迷うところ」などの内容が多数ありました。そう、人間同士だとその点は相手を責める理屈になるのですが、本来は人間にしかできない魅力なのです。それならば、そういうものとしてゆるしてしまえばいい。相手も、自分も。別に「そこに堕落しろ」という話ではありません。「聴く」ためには、まず「ゆるす」が大事になるのです。そこから建設的な対話へと移行していく、その土台づくりとなります。
多様性は社会の中だけではなく、一人の個人の中にも息づいていることを忘れてはいけません。社会の中に異なる考えがあることは頭では理解しているとは思いますが、人は“個人の中の多様性”を忘れてしまいがちです。自分の中にも、いろんな感情や思想の自分がいる。やる気に満ちた自分もいれば、ぐうたらな自分もいる。同じものに対して「好き」と思うこともあれば「嫌い」と思うこともある。気分によってもそれらは移ろってゆく。個人の中に社会があるのです。
さて、話はここからです。
相手(あるいは自分)のメッセージを受け取った後、わたしたちはどのようにアプローチをしていけばいいのでしょうか。そのポイントは、ニュアンス(機微)の表現です。
「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。