お餅100個

 新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
 この文章を読んでいる方々はよっぽどやることがなかったのでしょうか。大丈夫です。私も誰からも誘われず、面白くない正月番組をつけながら、だれが読むか分からない文章を書いています。ろくでもない正月です。タンスくさい祖父母の家で不味いおせちを食べながら、餅に飽きたら読んでもらうと正月太りしません。

 私の帰省は慌ただしかった。師よりも私の方がダッシュしただろう。祖父が救急車で運ばれた。焦って手ぶらで帰ってきてしまった。帰省ラッシュのピークにぶち当たった東京駅で自由席の行列に並びながら泣いた。席についても涙が止まらなかった。三列シートの窓側に座ったが、窓に反射して映る中年男性が駅弁を食べていた。左利きかなと思い、目線を現実に少し戻すと右利きだった。また窓の外に目をやった。弁当を食べるなよとなぜか腹が立ってしまった。あの時隣に座った優しそうな男の方、申し訳ございません。常に持っているリュックの中身を確認せず持ってきたが、中に本が入っていた。何かで気を紛らわすために読もうと出してみると、太宰の『グッド・バイ』だった。これもまた不謹慎であった。

 今祖父はICU、集中治療室にいる。入院した次の日には暇すぎるからテレビが観たい、金がかかるがよいかを訊いてきた。たぶん集中治療室でテレビを観る患者は祖父ぐらいしかいないだろう。そのまた次の日には酸素マスクを外すことができた。たぶん自分の肺で酸素を調節できる集中治療室の患者は祖父ぐらいしかいないだろう。偉大な祖父である。まだまだやり残したことがたくさんあるのだろう。4日に15分だけ面会できる。涙を返してくれと言いながら、手を繋いでこようと思う。

 たまたま前日に気の合う人と生きることについて話していた。巷では「生きるのやめたい」などと口癖のように言ってしまう少年少女がいるが、私は生きるのが楽しくて仕方ない。人生初回なのだろう。初回特典のおかげで初めての体験ばかりで、初めて会う人ばかりで嬉しい。朝まで人と話して帰る道中、バイクに乗りながら楽しかったなーと口に出してみたりする。しんどい瞬間もあるが、タバコを吸ってしまえば、その疲れも煙と一緒に上にあがっていく。素敵な映画を鑑賞すれば、この人よりしんどくないやと開き直る。私の大嫌いな自己啓発本のようなことを書いているが、そういうものは人に書いて教えられるものではない。私は強要しない。これをすべきなどと言わない。それで金を取るやつは詐欺師と同じだ。鏡を見ながら「生きるのやめたい」と100回唱えれば頑張れるのなら、言えばよい。頑張り方は人それぞれ、いろんなことを試行錯誤して生きていく。それを電化製品の説明書のように生き方を統一していく自己啓発本には嫌悪感を抱く。面白くない。たまには欠陥品があってもよいではないか。

 啓発本はすべて燃やせばよい。神社はちょうど焚き火をやっているからお守りと一緒にそこに入れてください。たぶん神様も怒りません。

 私は人生をやめられるような権限を持っていない。いわゆるこの世においての社畜である。一生懸命勉強をして、たくさん人と話し、本を読んで、趣味程度にタバコを吸い、生きるのを楽しむのが仕事内容だ。人生やめたいと言えるような人は階級の高い人たちのみで、80年も生きた人間がまだ生きなければと苦しそうに呼吸しているのに、たかが20余年の人間が呼吸をやめるわけにはいかないでしょう。まだなにもやっていない。あなたもわたしも。

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