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ホルモン全史 著・R.H.エプスタイン 訳・坪井貴司 化学同人

「ホルモンとは、現代の無線ネットワークである」
神経系が固定電話のように、発信地から受信地までの情報を届けるための「回線」とみなすことができることに対し、きわめて分散的な働きを見せるホルモンを「無線」と著者は喩える。実際、分泌される臓器と作用する臓器が異なり、それも複数あったりほかのホルモンと相互的に作用したりと、ホルモンは極めて複雑なものであることが本書では一貫して描かれている。
たとえば、テストステロンとエストロゲンはそれぞれ男性ホルモン、女性ホルモンとしてよく知られる代表的なホルモンであるが、シーソーのようにトレードオフの関係に思える直感に反し、協調する関係性であるという。
著者が「異なる衣装をまとった双子」と喩える通り、両者にはたった一つのヒドロキシ基の違いしかないのだとか。本書にはこのような妙味ある喩えが頻出する。
ホルモンの歴史は遡ること約2世紀、1848年にドイツ人の医師であるベルトルドが睾丸に注目し、犬を被験者とした実験によってこの分野の火ぶたが切られたとされている。
まず、睾丸を全摘出した雄犬が怠惰で臆病になったことから、精巣の働きがオスらしさを司るのではないかと仮説したベルトルドは、次に精巣を腹腔へ移植した。すると、本来の位置でないにもかかわらず、雄犬はアグレッシブさを取り戻したのだ。このことから、精巣それ自体や神経系ではなく、分泌された何かしらの物質が作用していると考察する。のちにこの正体がホルモンであることが正式に明かされるのはベルトルドの死後、実験からは半世紀がたった1905年のイギリスであった。
そこから、気質や疾患、能力など人間のあらゆる側面がホルモンによって説明可能なのではないか、というラディカルな動きが加速していった。攻撃性の指標となり得るとして、ホルモンバランスを測定できれば被害者が出る前に殺人鬼を炙り出すことができるのではないかという推察もあった。
ホルモンは歴史を通じて研究者たちを魅惑し続け、ときに過激な思想を生み出す温床となってきた。ユダヤ人を迫害した悪名高いナチスの優生学は、決してドイツだけを席巻していたわけではなく、アメリカでも一大ムーブメントとなっていたという。歴史が韻を踏むものであれば、昨今のホルモン療法も万全と言えないのかもしれない。現に、著者は普及に対して懐疑的な姿勢を表している。
ホルモンを通して人体を覗けば、いかにそれが複雑怪奇なシステムであり、安易に切った張ったすることができないものであるかを思い知らされる。
歴史ものとしても、医学リテラシーのガイド書としても文句なしに推すことができる一冊である。


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