「習慣」に対する従前の誤解について


習慣を擁立して規律正しく実行に移していくと、何だか代わり映えがなく、 ツマラナイ生活に他ならないのではないかという懸念がありましたが、 これが完全な錯誤であったことに気が付いたため、 今日はその点について考えてみようと思います。
20代アメリカ大統領であったガーフィールドはかつてこう言ったそうです。
「自分なりに生活時間を設計してみると、意外な無駄が発見できるし、計画に沿って生活していくと、以前よりもずっと自由時間があるに気づくはずである。ひとたび計画的に生活をし、それに慣れてくると、もう無計画な時間利用をすることが生理的にできなくなってしまう。」

習慣と計画的な生活は不可分な関係性であるため、この発言の計画をそのまま習慣と置き換えても似たようなニュアンスを持つことが分かります。
習慣の力を借りた計画的な生活はむしろ自由な時間を謳歌する気持ちがどういうわけか、大きくなる感じがあります。

別の観点からも、習慣の擁立が自由を阻害するどころかむしろ、増強することを考えてみます。
ボディビルダー木澤大祐さんがyoutubeの動画の中で「キツいトレーニングの時間を設けることによって、相対的にマイルドな日常がより楽しく味わえる」 というようなニュアンスのことを言っていたのですが、まさにそのような感じがします。
とはいっても、大半の身に着けたい習慣は歯を食いしばって意気が上がるようなことはなく、ストイック生活に思えるほどのことはありません。
いくら習慣化の力を借りて実行していくとはいえ、実行に移している間は精神がフリーな状態にあり、「行為そのものだけが規定事実である」というような感覚があるからです。

例えば、私が毎朝に課しているウェイトトレーニングやランニングは、その最中30分の中にも思考が芽生えてくるため、決して行為に縛られる感じはありません。 もちろん、バーベルを担いで動作を行う最中には他に何も考えることなどできませんが、 時間にすればインターバルのほうが3倍以上は長いため、何かを考えることは十分にできます。 やってみると、「思考だけせよ」と命じられてじっと椅子に座りこむよりもむしろ、運動中に良いアイデアが浮かぶことのほうが多いことに気が付きます。

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