近況と心境

ラトビアという国で、労働許可をもらって働くようになって8年目になる。

この国は、1991年にソビエト連邦から独立した。ベラルーシとも、ロシアとも国境を接していて、僕はいま、キエフから1000キロ離れていない場所で生活している。家族を連れて。

ラトビアにはラトビア語があるけれど、とりわけサッカー業界ではロシア語話者の割合が多く(たとえば僕は7人の監督の下でプレーしたけれど、その7人全員が指示もミーティングもロシア語で行っていた)、選手同士もロシア語を話すことが多かったし、僕自身もある程度ロシア語を理解することができる。

『母国語話者の割合は公用語のラトビア語58.2%、ロシア語 37.5%である。 ラトビア人の71%がロシア語を話すことができ、ロシア人の52%がラトビア語を話すことができる。』Wikipedia引用

だからロシア語圏の選手とはたくさんの繋がりがあり、ロシア人選手はもちろん、ウクライナ人選手とも、ベラルーシ人選手とも、一緒にプレーしてきた。本当に何人も、一緒にプレーしてきた。

なかには、給料をどうしても賭け事に使ってしまうやつがいて、俺はそいつに毎回金を貸していて、女の子を口説くときは靴や洋服も貸していて、練習ではいつも一緒にいて、最後の別れの日に、「Naka big hug」とか言って、そいつが世代別代表の時に使っていた(すごく大事にしていた)ウクライナ代表の練習着を俺にくれた。

そいつは今、地下シェルターの中にいる。

あるいはロシア人選手たちは、追放されるような形でサッカー界を締め出されている。この戦争の計画が頓挫するように、あらゆる形で制裁を加えてほしいという確固たる気持ちの一方で、そのひとつひとつの決定に、たくさんの友人の顔が付随して浮かんでくる。

そして僕の日常生活といえば、いまのところ特に変化はなく、朝からミーティングをして、練習や試合の分析をして、メシを食って眠りにつくことができている。

そうした合間に、ふと一緒にプレーした選手が爆撃を受けていることに思いが及ぶ。サッカーを取り上げられていることに思いが及ぶ。命がさらされていることに思いが及ぶ。

僕は、自分の日常と、1000キロも離れていない場所で起きていることを、上手に繋ぎ合わせることができない。戦争が、あまりに近くにありすぎて、一定のところで思考が止まってしまう。

自分事と他人事の境界にいて、真に自分事にする勇気もなければ、さっさと他人事にする度胸もない。気が向いた時だけ祈るようなインスタントな自分の感情に、少しだけ嫌気が差す。危険はすぐそこまで来ているというのに。

だからこうしてnoteを書いてみた。せめて、自分との戦いだ。



スポーツで、サッカーで、お金を稼いで、有名になって、自分が誰かよりも優れていることを証明して、説得力を手に入れて、論破して、

そのこと自体には、本当に何の意味もないと思うようになった。

そのお金を、影響力を、秀でた(偏った)能力を、いつ、何に使うのか。

欧州のサッカー選手の意思表示の熱量と、リアクションの速さを見て、彼らが持っているのはお金や影響力ではなく「格」なんだな、と感じる。誰の格が上とか、下とかの意味ではない。伝えること、表現することを経て、サポーターは選手に「人格」を見ることができる。

一人の人間が「戦争反対」なんて唱えたところで何も変わらない、自己陶酔の一種だろう、と、とりあえず傍観しておくのが、利口で、角が立たず、損がないのはとてもよく分かる。僕だってこのnoteひとつ書くのにもうだうだと時間をかけた。

しかも実名で意思表示をすれば、不特定多数からカテゴライズされることになる。「〜系」とか「〜派」とか「あっち側」とか「こっち側」とか。

けど、本当に意思表示に意味がないなら、こういった局面で上手に使えないなら、『プロサッカー』には何の意味があるのだろう?

サッカーが上手な人たちが集まって、それを披露して、勝ち負けを競う。勝ちたい、認められたい、褒められたい、応援されたい、稼ぎたい、モテたい、の先で、サッカー選手は何ができる?指導者は何ができる?その影響力で何を表現する?その影響力はいつまで自分の手元にある?

絶対解はないけれど、その問いは常に自分に向けておきたい。もし、これからも世界がサッカーを存分に享受できる世界のままでいるならば。



建前を奪ったら本当は全部自分の見栄えのためにやっている物事、そういうことに集中している時間は、もっと人生の基本的なことに使うべきなんだよと、自分自身に言い聞かせる。

選挙に行き、家族を大切にして、会いたい人には、会えるときに、会いに行く。

この数日は、たくさんの友達の顔が、絶え間なく浮かんでいる。家族が近くにいることは何よりの救いだ。

無事に今シーズンが終わって、日本に帰国して、友達と温泉に行って、海鮮丼を食べる。それがとてつもなく尊く、遠くにあるように感じる。


世界が平和でありますように。僕は戦争反対です。





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