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インクルーシブ教育について思うこと。

勉強不足の為、上手くまとまりませんが、今の率直な感想を思いつくままに書きます。(読み返して恥ずかしくなったら消しますw)

インクルーシブ教育と言っても、世界的に見る【インクルーシブ教育(人種・宗教等も含むイメージ)】と日本的に見る【インクルーシブ教育(障害者と健常者が共にというイメージ)】が違うし、そもそも日本に住む人々の捉え方、イメージがつかない(教育や福祉に関わる人以外は余り関心がない。子どものいる人は必ず関係する【当事者】のはずなのに、どこか障害のある子に限定した問題、健常者には関係ないと思ってしまっている。)のが現状であり『一番の課題』だと感じます。

当然、立場に寄って、方向性が違いすぎるこの問題。

日本独自の経過を辿ってきた特別支援教育。
基準が国連🇺🇳で正しいのか?ベストよりベターを目指すべきだというのが私の意見です。

私自身、当事者家族であり、「きょうだい」として体験したこと、親の葛藤を目の当たりにしてきた障害のある妹との生活で感じたモヤモヤした感情(あえて差別や偏見とは言いません。)も体験したし、これまで、障害者福祉施設職員、中学校教員、特別支援学校教員(肢体不自由・知的障害)と仕事として現場を見てきました。(仕事以外でも、地域の学習支援事業でのグレーゾーンと呼ばれる子どもたちの問題や精神科病棟やカウンセリングの現場も少しだけ見てきました。)

見る世界や視点を獲得していく中で、私自身の中でも、特別支援学校は無くした方が良い。【統合教育派】になったこともありました。

が…そのころは、それで居場所を無くす人がいることまで考える力が不足していたと感じます。

誰しも希望する学校で学ぶ権利がある。

というのが私の立場です。
しかし、それは、権利があっても現場でそれが可能かどうかはまた別問題と感じています。

野口さんがおっしゃるように、「特別支援教育の枠組みだけでなく教育そのものをどう変えていくのか」が大事だと共感します。

特別支援学校の現場に居て一番感じる事は、日本社会が、特別支援学校でなければ安心・安全を確保できない重度の障害のある子どもたちを、このインクルーシブ教育、フルインクルージョンを考える中で排除していないか、を懸念します。

近年、外国にルーツのある子たちが、日本文化に馴染めなかったり、言語の壁だったりによって特別支援学級、学校に入るケースや一斉授業に対応できなかったり、不登校だったりといった通常学級から排除される流れで特別支援学級にたどり着く子たちも問題とされていますが…

ただ、そんな事が問題とされる中でも、特別支援学校で、ゆるやかにも生きる力を育む子どもたちも居て、その存続こそもっとフォーカスしなければいけないのではないかと思います。

批判覚悟で私見を述べさせていただくと、
僕は、重度の障害のあるお子さん(全ての方ではありません。)の中には、教育という制度の上でなく、福祉制度を基盤にゆるやかな成長をしていくことで【学校教育】による生きづらさが多少改善する子もいると感じます。(学校と福祉サービスの中間のようなイメージです。)

この問題と向き合うとき、職員体制やら、金銭的な問題やら大人の都合が必ず出てくると思います。

でも…第一は、当事者一人一人が生きる喜びを感じられ、社会に参加することが幸せに思えるような社会にしていくことだと思います。

先日、強度行動障害の研修でお話をしてくださった現在の私の勤務校(知的障害の特別支援学校)を30年以上前に卒業された息子さんをもつお父さまが、『息子は、養護学校(現在の特別支援学校)で、本当に毎日楽しく過ごして友達と沢山の思い出をつくった。それが幸せ。』と話された事が忘れられません。
当時の時代背景からは、幼少期に酷い対応をされたこともあったと辛い過去を話してくださいました。
そんな時代に、特別支援学校という安全で安心な通える学校があったというのが救いだったという事実を軽視できません。

学校という概念、教育という概念をまた違った角度から見直す機会になることを期待します。

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