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信州伊那谷から #2 飯田市の思い出

こんにちは。

長野県の南部、伊那谷と呼ばれる地域に住んでいます。ここから見える世界とのつながりについて考えていきます。
今回は、祖母が住んでいた飯田市の移り変わりについて考え、思ったことをつらつらと書きました。

*ジャクソンという町

Google earthは疑似的に世界を旅させてくれるスゴイアプリです。

今年読んだ本「ヒルビリー・エレジー」に曽祖母が住んだジャクソンという町が出てきます。著者の”家(ホーム)”として書かれている地域です。

ジャクソンがどの辺にあり、どんな町なのかをGoogle earthで調べてみました。

正直なところ驚きました。思っていた以上に小さく、景色の美しいところでした。私の住んでいる場所より、もっと小さい町といった印象です。本書にも6,000人の町と書かれており、山間部にある平地に人が住めるように整備されていったのでしょう。

ジャクソンは曽祖母の家がある場所であり、祖母はそこからミドルタウンに移住しています。ミドルタウンは割と住宅街でジャクソンより都市感があります。私の住んでいる場所よりは、平坦な土地、密集した住宅街で、人口も多いでしょう。(それでもアメリカでは小さな地方都市なのかもしれません。)

著者はそのルーツをジャクソンに描いています。心のよりどころとして、幼い頃のジャクソンという美しい場所をヒルビリーとして置いているのだと思います。

*飯田市の思い出

まったく同じ境遇ではありませんが、今の私に照らし合わせると、飯田市がそうした特別なときに行く、思い出の地となっています。ただ、私にとってのホームではありません。

私の住んでいる長野県は面積が比較的広い県ですが、ほぼ山岳地帯がしめており、ジャクソンのように谷あいを開墾して発達して来た歴史を持つ県です。

私が小学生のころ、母方の祖母が長野県南部地方の飯田市に住んでいました。お盆、お正月の時期に家族全員で帰省する場所でした。平家で、割と大きな家だった印象があります。

飯田市は大きな都市でした。人がたくさんおり、映画館があり、長い商店街や大きな「ユニー」がある街でした。そして、親戚(母の姉妹家族)が集まり、従兄弟同士で遊ぶ、特別な場所でした。従兄弟と隠れんぼやブロックのおもちゃ(レゴでは無く、もっと小さいダイヤモンドブロックと呼ばれたヤツ)で遊んだりしていました。近くの小さな公園や川に行き魚を捕まえたり、夜は花火もしました。とにかくそこは大きな遊び場でした。
祖母は新聞を取っていなかったので、駅前の売店まで新聞を買いに行くと叔父さんがお小遣いをくれたりしました。
台所に井戸があり、手動のポンプを何回か上下すると冷たい水が出てきました。コタツは掘りごたつで、網の上に足を乗せるのですが網が熱く、それほど長い間入っていられるものではありませんでした。

私が子供の頃は微塵にも感じませんでしたが、大人になってから結構な苦労をしていたことを母から聞きました。祖母は裕福な家庭では無かったようです。地元名産である水引きを作る内職をして何とか暮らしていました。
大きいと感じた平家の家も、もしかしたらその都市性によって歪められた記憶なのかもしれません。

祖母はわりと寡黙な人で、自分のこと、戦争のこと、既に亡くなっていた祖父のことを話しませんでした。ほとんと過去の話をしなかったと思います。(単に私が小さく忘れているだけかもしれませんが。)

祖母から唯一聞いて覚えているのは、名古屋のある地域で戦時中、空襲に遭い、着のみ着のまま飯田に逃れた話を聞いたことだけです。なぜか疎開してきた話だけ、何と無しに祖母の口から聞いた記憶があります。

私が高校の時、父が実家を増築し、祖母は私の家に飯田市から引越して来ました。そして17年前に亡くなりました。

3年前、息子の部活動で練習試合が飯田市であり、十数年振りに行ったときに、少し駅周りを散策しました。
街全体が小さくなったように感じました。子供のころ遊んでいた川も、商店街も、駅も何もかもが変わっていました。郊外にバイパスが通り、その周囲に商業施設が集中しています。

子供からしたら大きな街だった印象だったのですが、面影はほぼ無く、どこか懐かしいのにどこか違う街に感じました。

*流転する世の中

祖母が実家に移り住んだ後、皆が集まった家は売られたと聞きました。今はどうなっているか分かりません。

祖母がいなくなった飯田市は抜け殻のような、私にとってひとつの地方都市、小さい頃の思い出の地となりました。

ここまで書いて想うのは土地が人をつないでいることです。
そうしたつながりも、時とともに変化し続けています。それは、今住んでいる地域にも当てはまります。(この話の続きは別の機会にしましょう。)

「ヒルビリー・エレジー」は、民族性、地域性、貧困問題を根底にした著者のメモワールです。

貧富という広義な意味合いにおいても、長野県は全体的に(都会ほど)裕福ではないだろうと思います。かと言って、ものすごく困窮している土地でもありません。都市における人の集中と競争によるエネルギーは速く絶大だと思います。密度が薄い分、そうした変化が緩やかに進んでいるように感じます。

長野県はまだ地理的、知名度的に裕福な方に属する地方だと思います。観光資源に恵まれ、多くの人が東京、名古屋と二つの都市から来ます。
夏は湿度が低く涼しいし、冬は(まぁ、厳しいのかもしれませんが)北海道や新潟の山間ほど厳しくもありません。

田舎に住む人はその土着性文化に感化され、経済に左右され、近年は自然災害に左右されつつあります。

常に思うのは、平家物語の冒頭の一説です。

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

世の中は無常であり、人も街も変わり続けています。昨今のコロナ禍もその地続きのような感じがします。「禍福は糾える縄の如し」常に流転しているのですね。

人は土地とともに、流れ、関係し影響し合っていることを、本編を書きながら考えていました。これは、良し悪しではなく、自然の摂理だと思います。

この摂理を踏まえて、長野県の未来について考えて行動していくことが、ここで生活するもの暮らすものとしての責務にも感じます。

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20200802:新規作成
20200829:加筆修正
20200830:加筆修正、投稿


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