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【建築家になんかなれるもんか】:共感性の時代に対して

文字を打つときというのは、だいたい指が震えて、PCの前で2~3時間何も書けずにいることが大抵である。だから、コンプライアンスもSNSの「いいね!」の数も気にせず、制限も受けずに、流暢にジャジーに(ときに露悪的なまでに)物を語れる人間であれれば良いなと願いながら、実際は部屋の隅っこでガタガタ震えてきた方なのだが、なんだか最近のあまりにも共感を前提としたコミュニケーションの数々を見るにつけて、とうとう僕の胃袋ははち切れ、逆流性胃腸炎の悪意が弾けだしてきている。


文学を除けば、だいたい物を書く人間が現実でもwebでもセミナーハウスのような場所を作り出して、商品セールスのようなトークでしか言葉を伝えられない社会では、さもありなん。周りの人間を巻き込むことに必死になり過ぎて、内容よりも方法の制限が見てて、とかく痒い。

なんだっけ、あの博覧強記の山口昌夫がロシアアバンギャルドに触れたとき、かのメイエルホリド評をしたイェラーギンの口から「芸術の内容に及ぶ執権職は破壊的だが、形式に及ぶ執権職はより破壊的である。すぐれた演劇が愚劣な芝居をやるのは、たしかに悪い。だが、それをあるやり方で演じなければならない方が、なお悪い。」などと言わせていた。
誰かに物を伝えるためには、かくあらねばならず。こういった思い込みの典型は、だいたいがその道の成功者を意識して生まれるのだろうが、そこで主権簒奪されてちゃあ仕方がない。連合的に内容が稚拙化して、生命力を失い、固有性を失っていくのは時間の問題なわけで。

狂気を発露させながら大成功した建築家と言えば安藤忠雄だろうか。彼が一般社会に受け入れられた文脈には学ぶものがあるはず。とかく、プロポーションだのディテールだのが良い/悪いなどの評は聞くに及ばず。その安藤は、実に良い文章を書く。
僕にも物を伝えたい気持ちはあって、特に建築という分野に左足の指の何本かは突っ込んでいるから、言葉と芸術の関係は考えているつもりだ。磯崎新、藤森照信、石山修武、青木淳、…良い言葉を選んで吐き出す能力と、その自由さにおいて先人達はたくさんいる。建築という分野は、というか建築家という人種は自己批判・他者批判を繰り返しながら成長してきた一種独特の生態系(日本の芸術界隈では!ここ重要。)を築いてきたので、言葉の力もまた非常に知っている。しかし、どうもその試みも、昨今の事情を見ていると風前の灯か。
げに恐ろしき共感性の時代!世に名の知られる若手建築家の多くの文章が、共感性症候群に冒されてなんともつまらない(作品もほとんどつまらない。ああ、建築家に生まれる前に自殺をするような発言してしまった。)

先日、宮崎駿はロリコンのプロバガンダだから嫌いだ、と言っている成人式を迎えたばかりの東大生と飲み屋で話をしたのだが、彼は建築という分野に進学する意思があるそうだ。そんな彼にはそっと「古代から人間はロリコンでホモなんだ。(僕はノーマル)」と教え、ついでに「キッチュに商業化されたロリとは異なる、あれぞ正当で普遍的な青年期への憧憬を描いているのだ」と呟いてみたら、彼は「宮崎駿のことが好きになりそうです。」と納得したような顔をして帰って行った。乾杯二十歳。
宮崎駿がロリコンかどうかで言えばロリコンであるが、はたや醜く老いさらばえる無常の時間(=クロノス)というものに相対した初老の哲学者たちが美青年をして永遠の輝きを求めたことに無理はない。プラトニックラブの話である。ナルキッソスが自身の美貌に触れ、水面に映ったもう一人の自分を手に入れようとして自殺してしまう話は、美を所有しようとする人間のもう一つの姿だ。美は独善的であるが、永遠ではない。ナルキッソスは神の呪いによって死んでしまったが、人間はそれに憧れ、手に入らず葛藤しながら生きている。宮崎作品では主人公のほとんどが少女であることは有名だが、それは青年期の入口たる第二次成長期に特有の変化を描く上で、それがもっとも分かり易く美しいモティーフだからであって、彼は男が主人公でも良い話を描く。つまり、彼は人間が時間の中で成長し、失っていく、その短い夢を描いている。それはどの作品にも共通して見られる構造だ。(『紅の豚』はおっさんもおばさんも青年も少女も皆そうだから、加藤登紀子の『時には昔の話を』がよく合う。最近では森見・湯浅の『夜は短し歩けよ乙女』も良かった。あれだってお酒と夜の世界を知っていくうら若き乙女の変化を描いた立派なロリコン作品で、アジカンというもはやオッサンバンドが青春賛歌している。)

共感が必要とされるヒステリックなまでの集団圧力の中では、よく事件性とも関連して噂されるロリコンという言葉は色んな角度から批難の的だ。東大生の彼の言う宮崎批判の文脈にも一理はあるのかもしれない。一方で商品として完成し、クールジャパンの一角から、大量のアニメ・コミック文化が輸出されており、これらのせめぎ合いには文化の人権運動のようなものが感じられる。そして、僕からすればそんなことはどうでも良い。気がかりなのは、「何故、宮崎が少女を描き、それは美しいのか。」の一点に尽きる。こんなことは、ロリコンという言葉の頭上を弾丸が飛び交う中で、声を大にして議論することはできない。しかし、若き彼にはそうした時代に強い批判性をもって、周囲の同調圧力に屈さず、立派にポテンツを貫き通せる建築家になってもらいたい。

noteはアカデミックでも、商業的でもないから良いかもね。別にこんなことばかり言っていたいわけではないが、こんなことも公で話せない状況で、建築家になんかなれるもんか。

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