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雨降りの夜に溺れそうになる

深夜まで仕事に追われ、くたくたになっていた。Slackの返信を行っている間に、メールにて感謝の気持ちが送られてくる。これで良かったが、こんなはずじゃなかったと思える回数を超えた瞬間に、自分の選択が正解だったと思えたような気がした。

昨日は雨降りの夜だった。窓にぶつかる雫の勢いがどんどん早まっていくと同時に、道路にできた水溜りがどんどん大きくなっていく。家の中にストックしていたコーヒーを入れて、窓の奥にある雫たちをぼーっと眺めていた。

正解の反対は間違いなのだろうか。これまでにたくさんの人の正解と失敗をこの目で見てきた。いつも焦点が当たるのは他人の失敗で、同じ過ちを繰り返さないように細心の注意を払いながら生きてきた。もしかすると。道路にできた水溜まりに溺れる人だっているのかもしれない。相手の失敗ばかりに目を向ける自分がたまに嫌になる。他人の失敗を糧に自分を守ることは自分のためになっているのだろうかとも。

たくさんの選択をしてきた。と同様に、たくさんの選択肢を失ってきた。朝目覚めて、今日はパンにしようか。それともご飯にしようかと悩む時間も立派な選択だ。結局どちらも食べずにヨーグルトとバナナを食べる選択したわけなんだけれど、それが正解だったのかすらわからない。そんなことよりも昨日の疲れがうまく取れていない。これが生きている感覚なのか。そうだったらいいなと、疲れさえも愛しくなる。

答えは自分の中にしかない、と誰かが言った。もしこの言葉が事実であるならば、自身の中に間違いなどないのかもしれない。幼少期から大人になるまでの時間。夢を見て、結局諦めて、別の夢を追いかける。誰かを愛して、愛されて、傷つけて、傷つけられて、たくさんの出会いによって生かされている。幸せであってほしいと願える人の数も増えた。正解か、間違いかなんて結論どうでもよくて、選んだ道の先にある幸福を選べていたのであれば、それでいいのかもしれない。

「さよなら」という言葉よりも、素敵な言葉をずっと探している。もしかしたら「またね」が理想の言葉に1番近いのかもしれない。もう会えないなんて寂しすぎるから、また会いたい人には「またね」と伝える主義だ。たとえ2度と会えなかったとしても、また会えるかもしれないという願望を胸の中に残しておける。

夜の寂しさを一緒に拭ったあの人は今も元気にしているだろうか。お酒を飲んだあとに、ソファの上でタバコを吸っていたあの人。永遠など聞いて呆れると鼻で笑ったあの人。音楽は祈りに近いんだよと嬉々としていたあの人。今は顔も名前も思い出せないけれど、一緒に虚しさに打ちひしがれそうになったあの事実だけは今も鮮明に胸の中に残り続けている。ふと手の届かない場所に向かって手を伸ばしたみる。届かなくて当たり前とわかっているのに、なぜ手を伸ばし続けてしまうのだろうか。誰かが諦める術を教えてくれれば、少しは楽に生きられるのかもしれない。

これまでしてきた全ての選択が正解だったのか。間違いだったのかはよくわからない。選び取ったものの数よりも選ばなかった数の方が多いことは痛いほどによくわかっている。そもそも正解などないのかもしれない。酒に溺れた夜も、二日酔いで苦しんだ朝も、すべて自分がしてきたかけがえのない経験である。正解か間違いか。そんなことよりもあの人たちが幸せであればらそれでいい。そして、いつの日か笑って死んでいけたら万々歳である。

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