映画《バーニング》、納屋からビニールハウスへ

・当たり前の前提。小説を映画にすることはできない。日本語で書かれた俳句をフランス語にすることが、英語で書かれたソネットを日本語にすることがほんとうにはできないように。それらはあまりにも違う。意味だけでなく形を伴う作品には、翻訳の不可能性と、それぞれの媒体に固有な特質というものがある。小説はあくまで小説であり、映画はあくまで映画である。
 その上で、この作品は、原作の日本の村上春樹の短篇小説から受け取ったものを、映画という媒体で、現代の韓国という舞台で、確かに展開しているように思えた。たとえば一つの変奏曲として。

・性の表現。(池袋芸術劇場で観た《プラータナー》をあわせて思い出しながら。)セックスの描写には、作中人物への、観る者の内的感覚からの半強制的な接近を促す効果がある。三人称的でしかないはずの他者に、一人称的に迫ること。他者の視点を追うことを超えて、身体的な共感を生じさせること。
 さらに、没入感(描き方)の度合いにもよるけれども、その場、その瞬間だけが異様にリアルなものになり、外部(への関心)が喪失される、という感覚をもたらす。岡田利規《三月の5日間》、あるいは、クンデラの『存在の耐えられない軽さ』における、セックスと政治という領域のあいだの距離。

・(雑記)喪失の感覚と、“凡庸な”悪意の(これを書いたあと、原作を読み返して、何気なくアイヒマンの名前が出てくることに気づいた)浸透する気配。フィッツジェラルドやフォークナーから受け取ったものを、村上春樹も確かに80年代の日本という場所で展開してみせた。井戸というモチーフ。燃え上がる炎のイメージ。マイルスの「死刑台のエレベーター」が流れる田舎の夕景、踊る裸の女の影絵。ヘミは現代韓国のホリー・ゴライトリーか?

・原作を読み返した後の追記。
 イ・チャンドン監督が映画を創るために小説に加えたものは、大きく言って二つ。物語る手法としてのミステリー、それから熱。熱とは、切迫感や嫉妬や怒りや暴力性。それは、たとえばジョンスとヘミを幼馴染にしたり(原作では十歳以上主人公のほうが上という設定で、おまけに彼は妻帯者なので、ヒロインにそれほど固執しない)、ジョンスとベンに明らかな社会的格差を生じさせることで(未読ながら、この階級闘争的要素はむしろフォークナーの「納屋を焼く」への先祖返りと言えるかもしれない)与えられている。原作小説は、村上春樹自身が“冷たい”という言葉で形容しているように、むしろクールな(ちょうどマイルスのトランペットが似合うような)、シュールな味わいであり、燃える納屋のイメージも、あくまで主人公の想像を通じて間接的に(小説なので当然だが)描かれる。映画版では、猫や時計といった小道具をミステリー的に使い(あくまでそれは、物語を展開させ、観客を引っ張るための装置であって、この作品が本質的にミステリーだというのでは決してない。この世界という謎は解けないし、解けるものはほんとうは謎でもなんでもなく、用意されたパズルのようなものでしかない。“小説の精神とは複雑性の精神であり、それぞれの小説は読者に「物事はきみが思っているより複雑なのだ」と言う”、クンデラ)、かつ身体や関係性がはっきりと眼前のスクリーンに“見える”ことの直接性によって(原作小説ではほとんど意識されることのない主人公とヒロインの性が、映画序盤でかなり鮮明に意識される、そして、たとえばベンのセレブなパーティーにおいて、服装や車種で、いかにジョンスが浮いてしまうかを、僕らはありありと見せつけられることになる)、なによりも、ヘミを不条理に奪われたのではないか、という疑惑によって(原作の「僕」と違って、ジョンスは率直にヘミへの愛を語り、悔しさを滲ませる)、じわじわと熱が、不穏さが高められていく。
 ラストシーンの、燃え盛る火と溢れる血は、映画という表現であることそのものによって要求された場面だ。それは、決して唐突なものではない。謎は何も解けていないが、一つの帰結が描かれる。物語を理解せずとも(ジョンスの書いたプロットだ、という有力な解釈さえ、特に必要ないように思える)、たとえ時間が経ってストーリーを判然とは思い出せなくなっても、表面には現れなくとも確かにそこにある埋み火のような熱を映画の流れとともに感じ続けてきた観客ならば、最後に噴き出すような炎のイメージは永く、おそらく現実に燃え盛る炎を見たときよりも、ずっと深く記憶に残るだろう。それは原作でも同じだ。しかし、小説を読み終わって残る炎が、“So I lit a fire”(「Norwegian wood」)と静かに点けられ、どこか浮世離れして幻想的であるのに対して、映画が残す炎は昏く、情念的で、烈しい。

 納屋からビニールハウスへ。

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