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生の謳歌

娘が生まれました。2人目の子でしたが、1人目以上に、生命と人体の神秘を感じました。遺伝子の不思議とでも言いましょうか、顔や手足が、これでもかと小さく精巧につくられていることにただただ感嘆します。

そしてつい昨日、無事に母子が退院し、すっかり忘れてしまったいた、新生児との生活が始まりました。


久しぶりにおむつ替えをしようと、まだへその緒も取れていない、独特の赤ちゃんの香りに包まれた娘と対峙したとき、ふと、ここからは一瞬の出来事なのですが、何のためのおむつ替えなんだろうと、言い換えると、何のために生まれ、生きようとするんだろうと漠然とした疑問が湧き、同時に、なぜか出世してほしいってことではないなと真っ先に感じて、ああでも親父が出世したときに祖母は喜んでいたなと思い出し、でもそれはそれで嬉しく感じる気持ちはわからんでもないなと思いを馳せ、とはいえそれが目的化することはないんだろうなと考えたときに、ただ、ただひたすらに「この生を謳歌してほしいな」と思いました。そして、僕自身も生を謳歌したいと思いました。



生を謳歌する。
ふだん使わない言葉ですが、頭に浮かんだ言葉でした。


謳歌する、とは「大いに楽しみ喜び合うこと」という意味です。直感的に、生きる目的はこういうことなんじゃないかと、おむつを手にして、真っ黒なうんちを目にして、思っていました。


生きる目的なぞをふだんから頻繁に考えているわけではありません。10代のときに比べたら全然考えなくなってると思います。でも生まれたばかりの彼女を見て、精一杯に生きようとしている姿があまりに尊く、美しく、喜びに満ちているように感じました。憧れにも似た感覚でしょうか。今この瞬間に全力を注ぐこと。楽しんで、必死で生きること。何もかも師と仰ぐべき姿勢のようでした。


今日はほとんど、自分自身への備忘録です。この気持ちは忘れないように。今この感動に執着したいです。

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