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歴史の勉強をしていることについて

最近は心理や恋愛について書くことが多かった気がするが、今日はやや離れて、学問的な話を。


かれこれ一年半ぐらい、割と継続的にに歴史の勉強を続けている。きっかけは、あるnoteを読み、高校までの教育課程で手に入るアイテムは、あらゆる文化にアクセスするための、資本である、と気付いたからだ。

とはいうものの、俺は高校時代は勉強など全くといっていいぐらいやっていなかった。学校は進学校だったが、入学と同時に、進学校まで行っても、学生や教師にも嫌な奴は全然いるのだということに気付いたし、野球に夢中でもあったので、勉強する意味を見失っていた。

でも、今は勉強について思い直している。別に勉強できる嫌なやつがいるからといって、勉強自体に意味や価値がないとは限らないし、なにより俺は勉強ができるのだから、素直にできることをやればいいのだ。


さて、英語はさておき、数・国・理・社の四教科は、全て東大合格レベルまで身につけたいと考えている。それもできれば、二十代の間に身につけられたら理想的だ。

社会から始めた理由は、単純に興味があったからだと思う。強さや効率を考えたら、国語を最初にやるべきだとは思っているが、今一番やり続けられそうなのは社会なので、まあできそうなことからやっていったほうがいいかな、と思っている。

そして、地理を除き、日本史・世界史の二科目の勉強をしている。地理も学べるに越したことはないだろうが、バランスを考えて教育課程や東大の入試科目数に従って、二科目選択にしておいた。


一年半ぐらい歴史を勉強していて、さすがにここ最近になって、自分の中でも社会に対する見方なんかが流石に変わってきた様に感じている。

まず、社会の制度や文化を批判することについて、慎重になったと思う。それはやはり、今の社会が出来上がるまでには、有史以降でも何千年という人類の歩みがあったのだということが、少し分かってきたからかもしれない。

それと、歴史を学んだことによって、他の教科を学ぶことの意義を再発見している様な気もする。単に数字を読み、言葉を読み、ということであっても、その数字や言葉自体、これもまた人類が何千年もかけて、進化させてきた、最も普遍的なツールなのだ。

それらを用いて、論理的に思考を組み立てることができる能力、というのは、容易に資産性のあるものに転化する、というのも今なら頷ける。


毎年一回秋に開催されているらしい、歴史能力検定というのを今年受けたいと考えていて、それの二級に日本史・世界史それぞれで合格することを、一応の目標にしている。

民間の資格だが、一応それなりに歴史があり、歴史についての検定では、日本一有名なものの様だ。その二級は、高校標準レベル、といったところの様である。

今、家庭教師や個別指導塾の講師のバイトを志望しているのだが、何も踏み出せていない。それは、自分にその資格があるのか、という疑念が、障壁になっているのだと思うので、この検定が取れればまた自信もついて、何か仕事についても進展があるのではないかとも期待している。


心理系の執筆はなんだか気持ちがどろどろしてしんどいところがあるが、こうして現実的に目標に向かっていこうとする様な、執筆は軽やかに書けた。

やっぱり俺は、努力好きな少し変わり者の人間なのかもしれない。

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