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5/7「人に優しく」

ブルーハーツにそんなタイトルの曲があった。それはそうと、最近『情熱の薔薇』という曲が、なんだかやさしい歌に聞こえるようになった。


アトピーの状態がひどい。昨晩は、身体中痒くて、部位によっては痛くて、皮膚から生気が抜けていくような感じがして、「死にたい」と思った。

薬は飲んでいるが、やはりそのアプローチでは治らない気がしている。もっと精神的なこと、生き方についての、根本的な反省が必要なのだと思う。

そこでなんとなく思い当たるのが、「人に優しく」ということだ。


宇多田ヒカルの『automatic』に、「やさしが辛かった日もいつも本当のことを言ってくれた」という歌詞があった。

その喜びや嬉しさが、なんだかわかる気がする。おれも、優しくされるのが得意じゃない。苦手だと思う。

それはやっぱり、「本当のこと」じゃないからだと思う。何も悪いことをしていなくても、不運によって毎日人が死んでいったり、一生治らない障害や病気を負ったりする世の中だからだ。

真実が聞きたい。現実を見たい。本当に悲しい時には、それしか癒しがないのだと思う。落ち着いて話がしたい。


それが原因で、他人との間に境界線を引いているのかもしれない。

友達にも君付けで呼ばれることが多い。嫌いではないが、やはり距離は感じる。でも、自分でも他人に対してどこか距離を置いている気持ちがあるのだろう。

だから、多分人に優しくできない。優しい言葉をかけることを、躊躇ってしまう。どこか気恥ずかしい。


優しさとは、体力か、知性だ。それ以外の「優しさ」は、たぶん倫理的ファッションか、不自然に引き延ばした自己愛の延長だ。

信用してる人とがこんなことを言っていた。

優しさを、「優しくする」というままで持ち歩くのはあまり良くないそうだ。

なんだかこれはこれでわかる気もする。優しくしようしよう、としても、それは相手の利益につながらない、ということが、不思議で残念なことに、世の中には多いと思う。


じゃあ「優しさ」ついてどうしたらいいのだろう。人の考えを借りてばかりで、自分の考えがこんがらがってきた。


なんで『情熱の薔薇』が優しく聞こえたのかというと、「いつまで経っても変わらないそんなものあるだろうか」という歌詞が、絶望の渦中にいる人の心に寄り添う言葉に思えたからだ。

相手の心理を代弁し、共感する。つまり、まさに「寄り添う」こと、ここに、おれは「優しさ」を見出した。

これって考えてみれば、さっき引用した「知性」の範疇なのかもしれない。どれだけ「優しくしよう」と思っても、「見てとる」「知る」ことができなければ、それは優しさにはならないだろう。


なんだか身もふたもない結論かもしれないけど、結局「わかること」に勝る優しさというものはないのだろうと思う。

「優しさ」の漢字を使って、「優れる」とも読む。朝顔に水をやりすぎて枯らしてしまうような、そんな優しさは、やはり捨てるべきなんだろうな。

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