60年前に別れた恋人にもう一度逢いたい

-初恋のあの人は今頃どうしているのかな-
人は誰しも、若さゆえに実らなかった想いや、伝えられなかった気持ちを心の奥底に秘めているのではないだろうか。

探偵社への依頼の一つに「連絡先が分からなくなった初恋の人と再会したい」といった『初恋の人探し調査』がある。
しかし、現在ではこのような依頼はほとんどお受けしていない。理由としては、万が一、依頼者がストーカー犯だった場合は事件になる可能性があるのと、ここ数年間で個人情報の取得が大変難しくなったので、調査方法が聞き込みで行えるものに限られるからだ。
また、依頼をお受けするときは、初恋の人を探し出せても、相手の連絡先は教えられないことを条件としている。初恋の人から「連絡先を依頼者に教えても良いですよ」という許可をいただいた場合のみ、依頼者が連絡先を知ることができる。そのようにお受けする条件を厳しくしているので、なかなか依頼には繋がらないのが現状だ。

初恋の人探しの依頼者には2つの特徴があり、1つは「65歳以上の高齢者」、もう1つは「男性」。
高齢者が多いのは、調査費用を捻出できるという経済的な理由もあるだろうが、若い世代ではfacebookなどのSNSを駆使すれば、初恋の人と連絡を取り合うことができるからだ。しかし、SNSと縁が無い高齢世代となるとそうはいかない。特に個人情報保護法が厳しくなった昨今では、何年も会っていない同級生と連絡を取り合うことさえ難しくなってきている。

男性が多い理由としては、よく恋愛における男女差として、男性は「フォルダ別保存」、女性は「上書き保存」が関係しているかもしれない。男性は恋人一人ひとりとの思い出を大切にするが、女性は新しい恋人ができると過去の恋人との思い出を切り捨ててしまうと言われる。人それぞれなので一概には言えないが、女性よりも男性の方が初恋をよく覚えているようだ。
ようは男性の方が女々しいし、過去にこだわる傾向がある。

今回は、別れた恋人を60年間も想い続けた男性の話を紹介したい。


「60年前に別れた婚約者を探して欲しいのです」
被っていたハンチング帽を脱ぐと、Tさんは少し恥ずかしそうに語り始めた。口ぶりは81歳とは思えないほどハツラツとしていた。

「今から60年ほど前、結婚を誓い合った女性がいました。しかし、親の反対でどうしても結婚することができなくなり、高松市の栗林公園で涙の別れをしたのです。その後、私は親の薦める縁談で結婚して、円満な家庭生活を送りました。今は子どもたちも成長して、それぞれ家庭を築いています。そんな私ですが、昨年に妻を亡くして一人暮らしとなりました。その頃からふと、今日まで音信不通となったあの時の彼女が頭をよぎり、それからは日々彼女への思いが募るばかりです。60年も経ってから今さら何を言うのかと、お叱りを受けることも覚悟のうえです。もし、彼女が今もご主人共々元気で居られるならばそれでよし。でも、私同様に連れ合いを亡くし、一人身で居られるならば、今一度再会を果たし、遅ればせながら残りわずかな人生を共にし、語り合いたいのです。また、不幸にして彼女も先立って居られたなら、墓所を探し出してほしいのです。何としても墓前に参り、気持ちに区切りをつけたいと思います」

以上、相談内容を要約したが、実際Tさんは3時間以上も喋り続けていた。
Tさんの話は、彼女(以下B子さん)との出会いから始まり、昭和20年代の暮らしぶりなど、話があちらこちらに飛んでいった。何度も脱線しながらも語るTさんの思い出話を、私は根気よく聞いていた。

さて、Tさんの話も終わり、B子さんを捜す有力な手掛かりは、次の3点となった。
① B子さんの家は高松市の三条町で、大きな川が合流するところより、500mくらい上がったところにある酒屋さんの裏手にある。
② 近くの橋を渡ったところに大きなお寺があり、3本の巨木が見事だった。
③ 琴電の駅から歩いて20分くらいのところにB子さんの家がある。

Tさんの若かりし頃は、男女が家の近所で語り合うと田舎町ではすぐに噂になってしまうらしく、いつも2人はお互いの家からだいぶ離れた栗林公園で会っていたとのことだった。そのため、B子さんの家へは一度だけ送って行ったということで、そのときの記憶しかないらしい。心許ない手掛かりしかないのは仕方のないことだった。
B子さんからの手紙や写真も、Tさんが結婚したときに全部焼却してしまったため、人探しの手掛かりとしては、かなり少ないものとなる。

話が一段落すると、Tさんは持参した高松市の真新しい市街地図をテーブルに広げると、ある場所を指でさした。確かにTさんが示した場所は大きな川が合流しており、琴電三条駅がある。
Tさんの指はそこから歩いて20分位の所をなぞっていき、「多分、この辺だと思います」と力強く断言された。手掛かりは少ないが、これなら、比較的簡単にB子さんを見つけることができるのでは、という思いから、Tさんのご依頼をお受けすることにした。

早速、高松市内地図や電話帳などでB子さんの情報に関しての簡単な下調べを行ない、調査に着手することにした。
Tさんの覚えていた手掛かりの中で、「近くの橋を渡ったところに大きなお寺がある」という点に関しては、地図上ではそのお寺の存在を見付けることが出来なかった。多少不安になったが、長い年月の間に寺が移転することもあるのかもしれないと考え、特段大きな疑念を持つこともなく、私はそのまま高松市へと向かったのである。

しかし、その後とんでもない落とし穴にはまるとは、このときは思ってもみなかった。

高松における現地調査では、まずTさんのかすかな記憶を頼りに琴電三条駅へと向かい、「酒屋」「B子さんの家」をキーワードに、手掛かりの一つである「大きな川」と思われる御坊川の合流地点を中心に徹底した聞き込み調査を行った。
すぐにでも何らかの具体的な手掛かりが見つかるだろうと高を括っていたが、2日間の聞き込みではB子さんにつながる手掛かりはいっこうに掴めず、琴電三条駅を基点に調査範囲を4倍まで拡大して調査を数日間続行したものの、該当する情報はゼロという厳しい状況に行き当たってしまう。

念のため高松市の河川を担当する部署に、この60年の間に河川の流れを変えるような大掛かりな工事が行なわれていないかどうか確認をしたが、「新しい水路を造る事はあっても、合流している河川を埋めたてるような馬鹿げた工事などできる訳がない」と、笑われてしまう有様である。
こうしたことから、Tさんに電話をして当時の状況や手掛かりについて再度確認したが、「大きな川が合流していたこと、琴電三条駅から歩いて20分くらいの場所に酒屋があり、その裏手にB子さんの家があったことは、絶対に間違いありません!」と、逆にお叱りを受ける始末だ。

そこで、今度はこの土地に古くからある商店や地域の老人会の世話人などを訪ねて聞き込みを行なうことにした。
B子さんを捜している事情をある程度お話しすると、ほとんどの方がまるで自分のことのようにとても親身に昔のことを話してくださった。ある方は、同年輩の友人たちに電話をかけて尋ねてくれるなど、一生懸命になって探していただいた。しかし、それらすべての努力・好意も空しく、結局は「昔からこの辺にそんな家はなかった」という答えに落ち着いてしまう。
最後にみなさん口を揃えて「この辺りは古くから知っとるで、どこか他の場所と間違っとるんやないかねぇ」と言われるのだ。

行き詰まった私は高松での調査を一旦打ち切り、広島に戻ると調査状況や調査エリア内で得られた情報を基に再度検討してみた。
そして、「Tさんの記憶に混乱があり、調査エリアが誤っている可能性が高いのではないか」と結論付けた。

高松市の市街地図を基にこれまでの先入観をなくして「大きな川が合流している」「鉄道の駅が近くにある」というキーワードで地域を検討してみたところ、新たに3ヶ所がその条件に適合する。
その中に、駅名は異なっているものの「六条町」という場所を見付けた。
おそらくTさんは駅名を覚えていたのではなく、京都風の○○条町という形で名称を記憶されていて、調査着手前にTさん自らが地図で調査地域を特定する際、地図で「三条町」「琴電三条駅」という地名を目にして、ご自分の記憶にある「琴電の駅」「大きな川の合流点」というキーワードに符合していたため、目指す場所は三条町で間違いないと錯覚したのではと思われる。

1週間後、私は再び高松市へと向かった。
六条町に到着して聞き込みを行なったところ、現在はコンビニエンスストアになっていたが、Tさんが言われていた「酒屋」を見付けることができた。そして、その裏手にある空き家には当時B子さん一家が住まれていたことも判明した。
しかし、近所の方への聞き込みによると、B子さん一家はTさんと別れた数年後に、坂出の方へ転居されたらしい。
再び捜索が暗礁に乗り上げてしまった。

何も手掛かりの無い状況で坂出に向かっても仕方が無いので、とりあえず宿泊予約の高松市のホテルに向かうことにした。
チェックインの手続きをしていると、知らない電話番号からスマホに着信が入った。電話に出てみると、「重川さん!B子さんと親しくしていた女性が見付かった!」と、その日に聞き込みをした高齢の男性の方からだった。その男性はあれからB子さんを知っている人がいないか探してくださってのである。

早速、B子さんを知っている女性に電話をしたところ、「B子さんは結婚して松山の方へ移り住んでいたが、ご主人を亡くし、子供がいなかった事で婚家を追われてしまった。その頃までは手紙のやり取りをしていたが、それ以降は高松に戻られたという事ぐらいしかわからない」という貴重な情報をいただいたため、その情報を基に次の調査へと移行することにした。

B子さんが現在80歳という高齢であることから、病院に通院・入院している可能性が高いと判断し、市内の主要な病院から聞き込みを始めることにした。
病院での聞き込み調査は3日間に及んだが、市民病院の外来に来られていた方から待望の情報が得られた。その方の自宅近くにあるアパートにお年寄りの女性が住んでおり、その女性がBさんと同姓同名で、背格好もほぼ同じであるという。
私はすぐにそのアパートを訪ねることにした。

教えていただいたアパートは単身用の木造2階建てだった。部屋番号は分からなかったが、幸い、郵便受けにはB子さんの名前が書かれてある。その部屋を訪ね呼び鈴を鳴らしたが、反応は無い。留守のようだ。
玄関のドア脇にある小窓が少し開いていたため、中の様子を窺おうとしたそのとき、背後から「あの、何かうちに御用ですか?」と声を掛けられた。
振り返ると、食材が入ったビニール袋を提げた白髪の女性が立っている。その女性が一目でB子さんだとすぐに分かった。Tさんから聞かされていたB子さんの特徴と一致していたからだ。

「すみません。突然で申し訳ありませんが、Tさんという男性を覚えておられますか?私はTさんの依頼でB子さんを探しに来た者です」

そう告げると、B子さんは一瞬驚いた顔をされ、「Tさんというのは、あの高松に居たTさんですか?」と何度も確認をしてきた。そして、突然の訪問にも関わらず、快く居間に通してくださった。

初めはTさんの近況を静かに聞かれていたが、今回のご依頼内容をお伝えすると、B子さんの目からは大粒の涙が溢れ落ちた。
B子さんの話によると、B子さんはTさんと別れた2年後に見合い結婚をされた。しかし、夫となった男性は酒が入ると人が変わったようになり、B子さんはそれでずいぶんと苦労をされたようだ。ある時B子さんは夫にお腹をひどく蹴られて病院へ担ぎ込まれ、それが元で子供ができない身体になられたらしい。
その夫とは20年連れ添われたそうだが、夫は48歳の若さでガンでお亡くなりになられたそうだ。その後、B子さんは婚家を出ることになり、高松に戻ってからは病院のまかない婦の仕事で何とか生活をしてこられたとのことだった。

B子さんの思い出話を聞き終えた私は、Tさんが是非一度B子さんにお会いしたい旨を伝えると、B子さんは
「私にとってTさんは大切な思い出です。Tさんのお気持ちは私には夢のようです。できるものならば昔に戻りたいという願いがある半面、時間が経って年齢を重ねた今の私の姿をTさんには見せたくないという思いの方が強いのです。今日は突然のことで取り乱してしまい、きちんとお伝えできていないかもしれませんが、思い出は思い出のままにしておいた方が良いと思います」と静かにおっしゃった。

その後、私はTさんとのさまざまな思い出話をB子さんからお伺いし、Tさんへの手紙を書いていただいた。それはB子さんを見つけた証であるとともに、このうえないTさんへの贈り物となるだろう。

広島に戻ると、そのままTさん宅に報告に出向いた。
B子さんと逢えたことや、B子さんからのことづてを聞かれたTさんは、B子さんと同様に大粒の涙をこぼし絶句された。
Tさんの気持ちが落ち着いたころ、B子さんからの手紙をお渡しした。Tさんは手元を震わせながら何度も読み返しておられた。その後、しばらく瞑想されていたTさんは、私へその手紙を見せてくださった。その手紙には次のように記されてあった。

『今日のようにこんな嬉しい日はこの何十年ありませんでした。Tさんの事は大切な私の宝物のような思い出です。ただ、すぐにお会いしたいという気持ちよりも、老醜を晒す事が恥ずかしく思い、とどまりました。この先何年生きられるか分かりませんが、気持ちだけは別れたあの日以前に戻したいと思います。再びお会いできる決心がつくまで、手紙で昔のTさんと私に戻ってお付き合いを深めたいのです。』

それから半年後、Tさんから「B子さんに会うことになりました!明日、高松へ行ってきます!」と電話があった。その声は弾んでいた。
今ごろは、60年前の青春を再び取り戻されていることだろう。

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