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【#10コルカタ】鶏とシスター

宿に着いて荷ほどきをしてから、市街で料理店を探した。サダル・ストリートという有名な安宿街の近くで、地元のインド人が何人かいるレストランを見つけたので、入ってみた。

多くのインド料理店と同じくこの店もメニュー表にイラストがないわりに、メニューの数が多く何を頼めばいいか迷った。カレーは食べ飽きたこともあり、タンドリーチキンを頼むことにした。

サダル・ストリート近くの商店街

暗くなってきたので、この日はご飯を食べてすぐ、電車とバスを乗り継いで宿まで帰った。バスに乗っているとき、すでに熱っぽさと腹痛を感じ、「早く宿に帰りたい」と思っていた。

就寝したが、すぐに目が覚めた。下痢だった。それからは下痢で20分ごとに目が覚めてしまい、満足な睡眠が取れなかった。さらに、午前3時ごろには吐き気を催した。レストランで食べたチキンを吐いて、「あのタンドリーチキンが当たったのか」と悟った。

犯人

吐いた直後は気分が良くなった気がしたが、それからも下痢と吐き気が止まらない。熱もあり、身体もだるかった。こうした状態が早朝まで続き、吐くもの全て吐いて、出すもの全て出しても気持ち悪さが消えない。

唇が乾き、喉が渇いたと思い水分を摂っても、すぐに吐いてしまう。身体がきついこと、このまま体調が悪化するのではないかという恐怖で、「異国でひとりぼっちで病気にかかるのってこんなに不安なのか」と感じる。

一気に水分を摂るのではなく、少しずつ口に含むように飲むことで水分が摂れるようになり、トイレに行く回数も減ってきた。下痢も吐き気も治まり、熱も下がってきた。

ただ、身体の倦怠感は消えなかったので、その日は宿で寝ていた。これまで屋台で何度となく食べてきて何ともなかったのに、レストランで食べて食中毒になってしまうとは皮肉なものだった。

その後、ある屋台で食器を金たらいで洗い、濁った水に軽くゆすぐだけで終わりというのを見て屋台も止めたが。旅を続けていくこと自体に弱気になってしまうほど、精神的にも参った。

気力の回復を感じたのは、その翌日だった。まだ本調子ではなかったが、コルカタの目的であるマザーテレサの家でのボランティアに応募しに行った。

応募受付は15時頃からと時間が決まっていたので、それまでの間モスクを見ていた。礼拝の時間が終わり、イスラム教徒が出てくると呼応するように物乞いも集まってきた。

ひとりがお金を出すと、私も私もと奪い合いになり、モスク見学よりも興味深かった。やはり、お礼はない。そんなに元気なら働けばいいのにと思うほどで、少し歩くと疲れる今の俺よりは間違いなく元気だった。

モスク前の物乞い

マザーテレサの家に着くと、シスターから「ボランティア希望者?」と声をかけられた。中に入れてもらい、日本人シスターとフランス出身の女性ボランティアから説明を受けた。

いくつか施設があるようで、一つはニルマルヒルディというホームレスを支援するプロジェクト。死を待つ人の家とも呼ばれており、マザーテレサの活動では有名なようだ。もう一つは、ダリアダンという施設での精神障害を持つ捨てられた子供を支援するプロジェクト。

「どちらでされますか?」と聞かれたが、両方経験してみたかったので、午前はダリアダン、午後はニルマルヒルディに2日間だけ参加させてもらうことにした。

体調が万全ではないことを伝えると、看護師の資格を持つシスターが来て、整腸剤をくれて使用法について丁寧に説明を受けた。インドでは、こういう優しさに助けられた思い出も多い。本当にありがたかった。

当日は、マザーテレサの家に集合してと言われたが、閉まっていてどうやってその施設に行けばいいか分からない。たまたま欧米人が「ダリアダン」と言いながら、タクシーを止めているのを見て、「俺もダリアダンだ」と言って自己紹介して一緒に乗せてもらった。

アメリカ人と欧州人の三人組で、フレンドリーだった。アメリカ海軍を引退して今はインドでNGOを運営しているというダニエル・クレイグ似の男性とは、特に仲良くなった。

着いてみると、ダリアダンは、市内中心部から遠く離れたエリアの路地裏にあり、分かりづらく一人だったら迷っていたなと思う。

ダリアダン入口

三階建のさほど広くない建物だった。受付を済ませると、三階に上がって、子供たちと対面した。10人くらいの子供が向かい合って座っている。

どの子も精神障害を持っているようだが、その様子は一人ひとり変わっていた。まだ朝というのに疲れ切った表情で腕枕して寝る子供、何がそんなに苦しいのか苦悶の表情を浮かべる子供、明るく笑い斜め前を指差す子供、顔の中心部が赤く大きく腫れ上がっている子供、目が潰れて見えない子供など。

年齢は幼稚園児くらいだろうか。しかし、自分の意思で歩くこともできず、多くはぐったりとしており、その年齢には見えない。

俺たちが来たことを認識できないようだった。まずは、座りっぱなしだからと足をマッサージするように、施設のシスターに言われる。慣れないなりにマッサージした後は、モップがけをした。

休憩時間があり、子供たちの昼ごはんの時間になった。この食事が大変だった。俺は人は認識できるアビンという子の担当になった。アビンはよく笑ったので愛想のいい子だなと思っていたが、次第にそれは面白いから笑っているのではなく、習慣で笑っているのだとわかった。

ご飯はカレーライスで量は多かった。一口ずつスプーンにすくい、口に寄せると食べるが、よくこぼしたりあらぬ方向を向いたりする。お腹がいっぱいなのか、まだ食べたいのか、もう食べたくないのかと聞くことができたらと思わずにはいられなかった。

全く口を開けない子供もいて、シスターが強引になんとか食べさせるということもあった。食べさせたら水を飲ませて口元を拭いた。それからベッドに移して、昼寝の時間だった。やっと終わったと思うほどの疲労感があった。

奥のベッドには頭が二倍くらいに膨張し、こぶのようになった幼児がいた。この子供たちは大人になったら、どうやって生きていくのか。精神障害があり、孤児でインド政府の社会保障もない。どれほど難しい状況か。

あの子たちの暗澹たる未来を思うと、帰りの道中他に何も考えることができなかった。精神障害者の支援において大変だと感じたことは、反応がないということだ。

自分が役に立ったのか分からない。やりがいを自分の内部にしか持つことができず、貢献が分からない。翌日のボランティアで、アビンは俺を覚えていなかった。

午後からはニルマルヒルディに行く予定だった。少し時間があったので近くまで行き、愚かにもカレーを少し食べた。それで不穏だったお腹の調子がさらに悪化した。お腹に気持ち悪さがあるまま、施設に向かった。

二階でエプロンをもらった。なぜか、他にボランティアはいなかった。一階に降りるといきなり裸のお爺さんを一緒に抱えさせられたり、尿をいれる洗面器を持たされたりして介護士のような作業に辟易した。

「もう帰ろうか、ボランティアがいないのはみんな逃げ出したからだろう」と本気で考えもしたが、せめて30分いてみようと思った。

ニルマルヒルディ入り口

それからは、老人20人前後が向かい合って座っている場所で、シスターが用意した薬を配ったり、食事の配膳をしたり、手をゆすぐ水と容器を持っていったりした。

食事が済むと、自分で動けない人はベッドまで車いすで移動するのを手伝った。ある人をベッドまで運んだとき、その横のベッドの男性が何かを言っていて、それがベンガル語で分からない。

水でもない、何だろうと聞いているとベッドまで運んであげた人が、その人に怒鳴った。そして「ありがとう」と言い、もう大丈夫という素振りを見せた。恐らく、お金が欲しいと言っていたのではないかと、あとで思った。

最後には、皿洗いをして作業は終了した。休憩のとき、施設のスタッフから「この人たちはホームレスで足を怪我していたり、歩けなかったり、目が見えなかったりして、絶望的な境遇にいたのでシスターが施設に入れた」と聞いた。

清潔な服に、三度の食事、シャワー、ベッド、必要な人には薬も支給される。日本のような福祉が整っていないインドでは、とても有意義なことだ。

宿への帰り道、お腹の痛みの激しさから大した距離でなくても、休憩しつつ歩く必要があった。倒れるようにベッドに横になった俺には、しかし人生で初めて本当に困っている人のために行動したのだという充実感があった。

この翌日もボランティアを行ったのち、俺はインドを発ってネパールのカトマンズに向かった。

コルカタを走るおしゃれな黄色のタクシー

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