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ショートショートに花束を 8巻

〈前書き〉

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 阿刀田高のアンソロジー『ショートショートの花束』にちなんだタイトルで、定期的に過去に書いた掌編、ショートショート、短編を纏めて再掲しているのですが、もうそれも8巻目まで来てしまいました。最初の頃は加筆修正や後書きなども加えていましたが、今は(細かい修正はする時もありますが)基本的にそのまま再掲する形の、作品集となりました。読んでいないもので気になったものを拾い読みでもしていただければ、とても嬉しいです。

 今回は自薦の際にもよく挙げる作品も多いので、主観的にはオススメと言えるかもしれません。もし良かったら~。



「【増補改稿版】ファーストフレンド・ラストフレンド ~最初で最後の、友達~」


 老人は、死を待っていた。生きたい気持ちもないわけではなかったが、抗いようもないものだろう。

 布団の上で横になりながら。
 死ぬ時は独りぼっちで死にたい、と若い頃は嘯いていたこともあったが、あれだけ群がっていた周囲の人間たちだけでなく、大切なひとたちまで一人また一人と自分のそばから離れていくと、自業自得な面もあったとはいえ、隠しきれない寂しさが込み上げてくる。

 この広い邸宅に住んでいるのは、自分だけ。住み込みの、信頼の置ける家政婦がひとりだけいるものの、雇う者と雇われる者の関係以上のものではなく、家族の不在を慰めてくれるようなものではなかった。

 肺がんで余命半年を宣告されたのは半年前のこと。それからちょうど六ヶ月の月日が流れた。今もかろうじて生き永らえているが、自らの身体に限界が来ていることは老人自身が一番よく分かっていた。死ぬならこの場所と決めていたので、入院も、老人ホームへの入所も頑なに拒絶していた。

 独りか……。
 ふと老人は少年時代の記憶を頭に浮かべた。近い記憶はどんなに頑張っても思い出せないものばかりなのに、遠い昔の記憶は郷愁に浸りながらも、まるで、いま体験しているかのようにくっきりと描き出すことができた。

 老人はちいさい頃、貧しく荒れた家庭環境の気後れと、もともとの引っ込み思案な性格から、いつも独りだった。他者が作った輪にうまく入れない寂しさに苦しんでいた幼き日の彼を救ったのは、ちょっとしたきっかけだった。

 そして、きっかけをくれた人がいた。

 ふと思い出したのは、今の自分とあのひとが重なるからだろう。
 ……と、そんな考えを中断させるかのように胸の当たりが急に痛み出す。家政婦は買い物中で、この家には彼しかいない。胸を押さえてもがき苦しむ彼の存在に気付いてくれるひとは誰もいなかった。

 苦しい……、あぁもう、駄目だ……、

 そう思った時、
「だ、大丈夫ですか!」
 頭上から声が届いた。



 夏は終わりに近付いていたが、その日は真夏に感じるほど暑かった。ランドセルを担いだ少年は自分の手を帽子のつば代わりにしながら、その強い日差しに照らされた道をぼんやりと歩いていた。

 ぼんやりとし過ぎていたのだろうか……。
 見慣れた景色の中をずっと歩いていたはずなのに、気付けば少年は見慣れぬ景色にいた。辺りを見回してもそのどこにも見覚えがなく、さきほどまでよりも強くなった風に揺られる枝葉のかさかさという音が少年を不安にさせた。怖がりな、いつもの少年ならもと来た道を引き返して、何も見なかったことにしただろう。

 この先に何があるかも分からない。求めているものは、きっと何もないだろう。

 それでも少年は先へ先へと歩いていく。
 学校から家へそのまま帰りたくない気分だったのだ。

「金持ちは敵だ!」とそんな父親の言葉がよみがえる。金持ちだから、とか、そうじゃない、とか関係ない。ただ彼女と普通に話してみたいだけだった。

 少年は同級生の誰ともほとんど会話できず、学校ではいつも独りだった。クラスメートはそんな彼に何か嫌がらせをするわけではなく、しかし特別関心を持ってくれるわけでもなかった。

 少年には友達と呼べる相手がひとりもいなかった。

 そんな中で唯一、下校の時、よく少年に話しかけてくれる女の子がいた。同級生で、同じ団地に住む彼女のことは小学校に入る前から知っていた。誰とでも分け隔てなく接してくれる彼女と、少年はずっと仲良くなりたいと思っていたが、そんなことをあの両親が許してくれるわけがないだろう。

 決して裕福ではなかった環境だったせいか、両親は裕福な家庭を目の敵にしていて、彼女の父親のことを両親は特に毛嫌いしていた。少女の父親は地元では名の知れた議員の娘だったからだ。

 今日、校門の前で少女から「ね、家近いんだから。一緒に帰ろう?」と言われ、少年は首を横に振った。言葉はうまく出て来なかった。

「私のこと、嫌い?」
 悲しそうに言う少女の言葉に耐え切れず、少年は走ってその場から逃げ出してしまった。まだ小学校に入学して間もない少年に、ましてや彼のその性格で、その雰囲気に耐えられるはずがなかった。

 止まったはずの涙がまた頬を伝いそうになった少年は、慌てて空を見上げた。

 そんな少年の不安定な感情を一瞬、すべて忘れさせるような怒鳴り声らしき大きな音が少年の全身を震わせた。真横にある大邸宅の中からその音は聞こえた。地元の名士が暮らしていそうな和風の邸宅は、貧しい少年では一生住めないであろう立派なものだった。お屋敷、そんな言葉がぴったりだと思った。

 こっそりと少年は生け垣の隙間からお屋敷の中を覗いた。窓と障子が開け放たれていて、その先が見えるようになっている。そこには布団の上でもがき苦しむ、かなり高齢の老人の姿があった。

 少年は、慌てて生け垣を飛び越え、庭先からその苦しむ老人のいる部屋に入った。少年の祖父よりも、一回りか、もしかしたら二回りくらい年を取っているような外見をしていた。

「だ、大丈夫ですか!」焦ってつっかえたしゃべりになってしまう。
 少年はどうしていいかよく分からず、背中をさすることしかできなかった。それでもすこし落ち着きを取り戻したのか、

 荒い呼吸を残したままだったが、老人が、
「すまない……そこに水と薬があるから取ってくれないか……」
 と言った。

 部屋の隅に長机があり、そこには水差しと湯呑み、そして白い小袋に入った経口薬があった。少年が老人のもとに持って行くと、
「あり、ごほっ、がとう」
 とつらそうな口調で言った。すこし経つと、薬のおかげで落ち着いたのか、先ほどまでよりもしっかりとしたまなざしで、少年を見つめた。

「きみは?」
「いえ、あの、あっ、ぼくはじゃあこれで……」
 緊急事態だったから慌ててお屋敷の中に入ったけど、いつまでもいるのは申し訳ない気持ちになってくる。この大きな家に自分は場違いだ。そう思い出すと、少年は急に恥ずかしくなってきた。

「待ってくれ……」
 その重みのある低い声には、自分の周りでは見掛けないような威厳が含まれていた。柔らかいけれど、すこし怖い……。

「えっ、あの」
「いや、怒っているわけじゃないから、そんなに怯えないでくれ。礼を言いたいんだ。すこしゆっくりしていってくれないか?」

「は、はい」
「妻はもう死んでいて、息子夫婦とは別居中。家政婦が買い物に行っていて、な。私、ひとりしかいなかったんだ」

「こんなに広い屋敷に、ひとり……」寂しそうに呟いてしまった少年は、慌てて謝った。「ご、ごめんなさい」
 老人はちいさく笑った。
「いやいや。気にしなくていい。本当のことだしな。きみは、どこから?」

「隣のS町から――」
 実際のところ、少年はこの場所がS町の隣町なのかどうかも分かっていなかった。しかし、「そうか」と老人が満足そうに頷き否定しなかったので、合ってたんだ、と少年はほっとした。

「そうか……。実は私も幼い頃、あそこで暮らしていたんだ。子どもの頃、うん、今のきみくらいの年齢の頃だ。人見知りがひどくて、友達がひとりもできなくてな――」
「本当ですか!」

 少年は思わずその言葉をさえぎるように大きな声を出してしまった。

「何を、そんなに驚いてる? そんなにS町に住んでいたことがめずらしいのか?」
「あ、いや、そうじゃなくて」

 彼女の顔を思い浮かべながら、少年はずっと友達ができずに悩んでいることを伝えると、老人は少年の話が終わるまで口を挟むこともなく静かに耳を傾けてくれた。大人に、そもそも誰かにこんなこと話すのが初めてのことだった。初めて会ったひとなのに……。何故か、このひとなら分かってくれる、という気持ちになったのだ。

 話が終わると老人は、
「そうか……。まぁ、この年齢になったら、友達なんて無理して作る必要もないなんて思うが……」と言った。

「でも……」
「あぁ、いや、そうだった。そうだよな。今の言葉は忘れてくれ。自分の子どもの頃のことなんて、すっかり忘れていた。いや、そもそも今の感情も。うん。私も、欲しかった。友達が、大切なひとが。ひとりは嫌だった。今でも、嫌だ、な」

「うん」と少年が頷くと、老人がその頭を撫でた。
「例えば……これが解決策になるかどうか分からないが……、きみを見ていると懐かしい感じがするんだ。私の子どもの頃の解決策を真似てみないか?」

「真似る……?」
「あぁ。私は子どもの時、きみと今の私くらい年齢の離れた友達を作ったんだ。どうだ」と老人は大きく口を開けて、笑った。「私と友達にならないか?」

「おじいさんと、友達?」
「嫌か? こんな、じじいは?」
 少年は首を横に振った。

「きみは名前なんて言わなくていい。私も名前は言わない。来たい時だけ来ればいい。きみに友達ができるまでの、その間だけの友達だ。私の最後の友達になってくれないか?」
「最後の友達……?」

「そう、きみにとっては最初の友達で、私にとっては最後の友達だ」

 少年はその帰り道、その場所への行き方を忘れないように、薄暗がりの街並みを目に焼き付けるようにして歩いた。

 それから数日間、少年は毎日、最初の友達のもとを訪ねた。と言っても大した話をするわけでもなく、老人の体調が日に日に悪くなっていたこともあり、すぐに帰ることが多かった。

 最後に老人のお屋敷を訪ねたのは、友達として少女と普通に話せるようになった日だった。その日の夕方、老人への報告のためにお屋敷に向かった少年は、家の前が騒がしいことに気付いた。お屋敷からすこし離れた場所で戸惑うことしかできなかった少年の姿に気付いたのは、顔見知りになっていたお屋敷の家政婦だった。

 そして涙の痕を残した家政婦が、老人の死を少年に告げた。

 それ以降、少年がそのお屋敷に行くことはなかった。実は一度だけ彼女を連れて、そのお屋敷のことを教えようと向かったのだが、辿りつくことができなかった。

 確かに道は合っているはずなのに、その街にさえ、辿りつくことが――。



 それから数十年の月日が流れ、少年はいつしか老人と呼ばれる年齢になっていた。

 幼い頃から大切にしていた友人関係は甘酸っぱい初恋へと変わり、やがてその恋は成就した。議員の娘婿となった彼は義父の力添えがあったことも事実だが、本人の努力や才覚とともに政治家として名の知れた存在となっていった。

 影響力を持った彼のもとには多くの人間が集まり、あるいは群がった。しかし影響力が翳りだすと、徐々に彼の周りからは人がいなくなり、ついには大切なひとまで、一人また一人と自分のそばから離れていった。

 まずは妻との死に別れがあった。紆余曲折は確かにあったが、最後まで心の底から愛していたと自信を持って言える。

 そして喧嘩の絶えなかった息子夫婦との別居もあった。息子がそれなりの年齢になってからは諍い続きだったが、お互いに憎しみとともに愛情があった、と彼は信じている。愛情があったからこそ関係がこじれたとも。

 医師から肺がんで余命宣告を受けた時には、もう彼は独りぼっちになっていた。信頼できるのは住み込みの家政婦くらいだが、雇う者と雇われる者の関係以上のものではなく、家族の不在を慰めてくれるようなものではなかった。

 独りか……。
 ふと老人は少年時代の記憶を頭に浮かべた。

 きっかけをくれたひと――。
 そうか……!

 あの数日間しか会えなかった最初の友達は、もしかしたら未来の――。そして今の――。

 突然の胸の痛みに、もがき苦しむ中で、
「だ、大丈夫ですか!」
 と頭上から届いたその声を、

 知っている。あぁその声は、これから最後の友達になる――。



「有名に、なりたいですか?」


 入学早々ドロップアウトするようにほとんど大学に行かなくなったぼくでも、初めて会う前からきみが「二番さん」と呼ばれているのは知っていました。きみは学内の有名人でしたから。だけど実は理由までは知らず、ぼくの勘違いもあって、ぼくたちの出会いはより最悪なものになりましたね。

 言葉を交わすようになったのは、大学三年の頃でした。ぼくは大学には籍だけを残しているようなものだったので、学年などあまり意味を成さない気もしますが。

 きみは世間的に言えば容姿が良いとされ、頭が良いとされるひとでしたけど、同じく世間的に言えば性格が悪いとされるひとでした。だから周囲からは鼻に付くと嫌われていて、ぼくも先入観もあって近寄りたくない印象を抱いていました。

 そんなきみと最初に話した場所はぼくのバイト先のコンビニでしたね。深夜のコンビニに怒りを添えて、きみはぼくの前に現れました。つかつかと靴音を鳴らして、脇目も振らずにレジまで歩み寄り、ぼくと一緒にシフトに入っていた同僚の頬をビンタしましたよね。驚きつつも、そのいかにも遊んでますという雰囲気の同僚のことが嫌いで嫌いで仕方なかったぼくは、その小気味の良い音とともに痛快な気分も味わっていました。

 その時点ではあまりにも急なことで、きみがその有名な「二番さん」だと気付きませんでした。それに髪もぼさぼさで、メガネも掛けていましたから。

 きみとその同僚はそのまま店の外へ行ってしまい、ぼくは店にひとり取り残される形になりました。忙しくなかったから良かったものの、それっきり同僚の彼が帰って来なかったのにはさすがに参りました。早朝に出勤した店長には彼がいなくなったことだけを告げました。馘首にする、と店長は怒っていましたが、それ以降、彼とはそもそも連絡が繋がらなかったそうです。

 店を出ると、前に取り付けられたベンチに、きみが座っていました。そこでゆっくりと顔を見て、きみが同じ学校の有名人だと気付いたのです。同い年なのも知ってました。同級生だからと言って気軽に声を掛けられる性格でもありませんから、顔を見ないようにしながら通り過ぎようとしました。

 だけど――、
「あんた。あいつと一緒に働いてた店員だろ」
 そう呼び止められてしまって、さすがにその言葉まで無視する勇気はありませんでした。ぼくが恐る恐るきみのほうを向くと、きみがぼくを手招きしました。

「ねぇ、ちょっと愚痴に付き合ってよ。あんたもあいつのこと嫌いでしょ」
「いや、別に――」
「嘘、吐かなくてもいいよ」

 疲れの残る早朝に否定し続ける気にもなれなかったぼくが仕方なく頷くと、きみが満足したように笑いました。すこし酔っているようでした。つまりは酔っぱらいに絡まれたわけですね。

 喧嘩の原因は、やはり、というべきか、彼の浮気が原因でしたね。でもきみを怒らせたのは、浮気されたこと以上に、
 きみが浮気相手だったことです。

 ぼくはそのまま一時間近くきみの彼に対する悪口を聞いていました。悪口の語彙ってこんなに豊富だったんだ、と思うくらいでした。彼氏と別れたと言っても、そこまで悲しんでいる雰囲気はなく、ただただ怒りが収まらないという感じでした。

 ぼくが愚痴を言いやすい相手だと思ったのか、無理やり連絡先を交換させられ、それからは事あるごとにきみに呼び出されましたね。聞かされるのは延々と愚痴。人間関係や男女関係のことを。きみの誘いを断れないぼくも悪いのですが、嫌な日々でしたよ。一緒にいる相手としてふさわしくないとぼくの存在をひた隠しにしていたことも知っています。別に怒りはしないけど、ちょっとだけ寂しかったなぁ……

 本当に最悪の出会いでしたね。
 そう、こんな出会いだったからぼくは、きみが浮気されやすいひとだから「二番さん」と呼ばれてるって勘違いしていたんです。才色兼備な癖に好かれにくい性格をしているきみへの陰口としては最適のような気がしました。

 だけど実際はもっと直接的なものだったんですね。
 大学のミスコンで準グランプリ、学業成績なんかの面でもグランプリの女性に一歩及ばない。そんな立ち位置だけど、きみが何よりも一番になりたい、という異常な自己顕示欲の持ち主だったから、周囲がそれをからかって。

「二番さん」

 知り合いがそう話してるのを偶然耳にしたんです。
 その頃にはきみの自己顕示欲の強さにも気付いていたので、腑に落ちるような感覚もあったのですが、同時にもやもやともしました。この感情の正体も分からないまま、ぼくはきみと会っていたんです。

「あいつさえいなければ……」
 ある時期からそれが口癖になっていました。あいつ、というのは、件のグランプリを受賞した女性のことです。

 名前はリナさんと言いました。実はきみよりも彼女のほうが、付き合いが古いんです。と言っても、そこに深度はありませんが。ただの中学高校の同級生で、あまりしゃべったこともないです。でも確かに彼女もきみと同様、才色兼備の持ち主で、何よりも人懐っこい性格で多くのひとから好かれやすい雰囲気を持っていたように思います。

 きみが羨むのも分かるような気がしました。
 彼女は彼女、きみはきみ、じゃないか……と勝手に言えるのは、ぼくが他人だからなんでしょうね。そう簡単に割り切れるくらいなら、最初から羨んではいないはずでしょうから。

 離れればいいのに、きみは必要以上にリナさんに近付こうとしていました。屈折した彼女への執着に危うさは感じていました。

 実際にきみの耳に入ったことはないでしょうけど、ほのかに伝え聞かされる、その「二番さん」という言葉や視線のナイフはきみの胸を抉り続けていたと思います。

 ぼくたちが大学の四年目――ぼくだけはきみたちと同じ学年には上がれなかったけれど――に突入した頃、リナさんは芸能事務所にタレントとしてスカウトされ、そしてすぐに有名なアイドルグループの一員になりました。そのグループの端で踊る彼女の姿を見ながら、あれだけひと際目立つ雰囲気の彼女でも、これだけ目立つひとがいる中では埋もれてしまうんだな、とぼくはぼんやり考えるだけでしたが、きみは違っていました。

 彼女が有名になっていく姿が、きみの劣等感を刺激したんだと思います。不特定多数のひとから認められることがきみにとってのすべてだったから。でもすくなくともぼくにはあの日のテレビに映る彼女が、一番には見えなかったし、不特定の多数のひとから認められる存在にも見えなかったし、何よりも彼女自身が満足しているようには思えませんでした。

 きみの言葉がさらに過激になっていくのを見ながら、不幸な結末の予感は抱いていました。それがこんな結末だとは思いもしませんでしたが。

 きみはさらに彼女との距離を縮めていきました。
 きみと彼女の間でどんな会話があったのか、ぼくはほとんど知らないのですが、伝え聞く話から察するに彼女はきみに絶大な信頼を寄せていたのだと思います。精神的に疲弊していく彼女にとって、きみの存在は光だったのかもしれません。

 そして彼女は大学の卒業も待たない内にタレントとしての活動を辞め、一大学生としての生活を取り戻していました。知名度が大きくなったせいで、以前とまったく同じ生活はできなくなっていたとは思いますが、偶然すれ違った際に見たその笑顔は、液晶越しに感じた引きつったものではなく、自然な晴れやかさを持っていました。

 それからすこしの月日が経った頃でした。
 彼女が殺された、というニュースがぼくの耳に届けられたのは。
 そして続くように、きみが逮捕されたという報せが。

 理由について触れようとは思いません。勝手に推測することはできますが、それがきみの無感情な瞳に光を宿すことになるとも思えないので。
「誰からも認められたかったんですね。でもそれはどこまでも際限なく広がって行って、深い影を落とします。……いえ説教がしたいわけじゃないんです。理由なんてきみ自身のほうがよく分かっていないのかもしれません」

 有名に、なりたいですか?
 そんな言葉に頷くきみと首を横に振る彼女が、いた……、
 ただそれだけのことです。

 それが彼女の死と、今、孤独の中で子供のように小首を傾げるきみを導き出した。
 ただそれだけのことなんです。

 ぼくはどうすればいいのでしょう。

 今日はその答えを伝えに来ただけなんです。
「誰かの一番。例えばそんなゆるやかなものでは満足はできないでしょうか? たとえばぼくにとっての――」
 いえ、これ以上はやめましょう。

 いつかその二つの檻からきみが出られた時、もう一度、今度ははっきりと言葉にして伝えます。
 だからそれまでは胸に秘めておきます。
 今のきみに言っても、小首を傾げるだけでしょうから。



「【増補改稿版】恐怖の終わり、あるいは始まり」


「大丈夫、大丈夫。こんなミス誰にでもあることだから。気にしないでもいいよ」〈余計な手間取らせるんじゃねぇよ。役立たずが〉

「ごめん。明日までにこの資料、完成させておいて欲しいんだ。俺は、ちょっとこれから用事があって……えっ、今日は用事があるから残業できないって? ふーん。そっかまぁそれなら仕方ないね。別の人に頼むから。いいよ、いいよ。気にしないでも」〈普段まともに仕事も出来ねえんだから、こういう時くらい仕事優先しろよ。馬鹿が。死ねよ〉

 いつだって俺の頭の中で、誰かの言葉が補足されていく。後に続く実際には放たれなかった言葉がいつも俺を苦しめる。優しい人間なんて俺の周囲には誰もいない。どんなに優しい言葉も俺が呪詛に変換してしまうからだ。時に現実と妄想の言葉の区切りが分からなくなる俺にとって、その言葉が現実かどうかなど意味を成さなくなる時がある。

「死ねよ。死ね。死ね」
 そんな同僚の子供じみた今日の罵倒が現実か妄想だったかなど、どうでもいい話だ。実際に聞こえたという俺にとっての真実があるだけだ。

 死んでやるよ。
 帰りの駅のホームで頭に死がよぎらなかった最後の日はいつだろうか。もう思い出すこともできない。学生時代にまで遡れば、一度くらいはあっただろうか。すくなくとも今の会社に入ってからそう思わなかった日は一度もない。世界中のすべてのひとを敵に回すことしかできない俺の思考で、孤独にならないわけがない。物理的な孤独ではなく精神的な孤独だ。いつも俺は精神的な孤独に苛まれている。

 駅のホームから赤茶けたレールに飛び降りて、俺は寝転がる。悲鳴のひとつも聞こえない。誰も声ひとつ上げない静寂に包まれた人混みの中で俺はゆっくりと死を待つ。災厄の日々が落ち着き、距離を取ることが奨励されるようになった世界で嘆きの声は後を絶たないが、そもそも俺の近くにいる者はすべて敵で、誰かと近くにいたいと思ったことなど、元から一度もなかった。

 殺せ、死ね。殺す、死ぬ。

 俺は殺されることを願っていた。壊れることを願っていた。誰も俺の存在に気付かない。世界中のすべての敵たちは俺に興味ひとつ持たない。そう、それでいい。どうせ俺はもう死ぬだけ、なのだから。

 轢け、潰せ――――。

 知っている。
 夢の中で覚醒しているように途中から夢だと気付いていた。

 眼を開けてまず飛び込んできた景色が澱んだ夜の黒だった。そうか……俺は、電車に乗っていたのか、と今更思い出す。成長の過程のどこかで他者への配慮というものを置き忘れてきたのであろう勤務先の上司に押し付けられた膨大な仕事による残業が、いつまで経っても終わらず、終電にぎりぎり間に合ってほっとした途端、睡魔が襲ってきた。そうか……それでそのまま眠ってしまったのか……?

 自分以外、誰もいない静かな空間は眠るのには最適だった。降りる駅は終点で、そこまではまだ距離がある。もうすこし寝ようか、と目を瞑るが一度起きてしまうと中々眠れない。

 それから数分経ったくらいだろうか、耳元に、
 くちゃくちゃ
 という不快な音が聞こえた。

 薄目を開けると、俺のすぐ眼の前に大男がいた。広々とした空間で男は何故か俺の至近距離に立ち、吊り革にも掴まらず、俺を見ていた。何を考えているのか分からないような無表情だった。

 なんだよ、こいつ……。
 普段の俺なら軽く会釈しながら場所を移動して、関わり合いになろうとはしなかっただろう。

 同僚の女性に「石橋を叩いて渡る、っていう言葉が誰よりも似合うひと」と言われたくらい慎重で、同じくその女性が陰口で「超事なかれ主義」と言っているのを聞いてしまったくらい面倒事が嫌いだった。

 いらいらが募っていたのかもしれない。

 席はいくらでも空いていて、俺の近くにわざわざ来る理由なんて見つからない。ガムを噛みながら、くちゃくちゃくちゃくちゃ、嫌な音を立て続ける感じも腹が立つ。

 耐えられなかった。
 くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ
 思わず舌打ちが出た。

「どっか行けよ、デブ」とちいさな声で呟き、後は無視するように眼を瞑った。
 くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ
 ガムの咀嚼音のテンポが早くなる。それも異常に。
 くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ
 やめろ、やめてくれ……俺が何をしたっていうんだ……いや、したよしたんだが……元はと言えば、お前が先だろ?

 手を出してくる様子はない。何故手を出してこないのかは分からないが、とりあえず無視しよう。

 俺はふたたび眼を瞑って、終点までそのままでやり過ごすことに決めた。電車に乗っている間の我慢だ。

 終点に着くと、俺は相手の顔も見ず、早足でその場から立ち去ることにした。最後まで手を出されることもなければ、声を掛けられることさえもなかった。ただ威圧的な雰囲気を醸し出し続けるだけで、それがあまりにも不気味だった。

 くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ

 耳障りな音が脳裏に貼り付いて、離れない。逃げるように駅から離れ、家路へと向かう道で俺は立ち止まり、俯く。そして深い息を吐く。

 これだけ離れれば、もう心配はないだろう。
 それでも激しい動悸が収まる気配はない。

 自分の軽率さを反省しながら、顔を上げると、
 くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ
 またあの音が聞こえてきた。

 追い掛けてくるようなその音は幻聴だ……幻聴に決まっている。だが夜闇に混じって聞こえてくるその音が幻聴ではない、と俺の第六感が告げていた。

 振り返ると、真後ろにあの男が立っていた。
 その時の俺は半泣きだったと思う。俺はこの男から何もされていない。だが何もされていないことが何よりも不気味だった。
 くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ
 もう味の残っていないだろうガムを噛み続けるだけの男の無表情さも不気味だった。

 俺はとにかく走った。
 俺は普段使わない道を使い、場所を悟られないようにしながら、自宅のマンションを目指した。

 ようやく自宅まで着いた時、自分の視界に男の姿はなかった。

 安心はしないまま、部屋に入る。独りの部屋がこんなにも不安に感じたのは、人生で初めてのことだった。
 ピンポンピンポン
 呼び出し音が聞こえる。
 ピンポンピンポン
 部屋の中からオートロックになっている玄関前の映像を見ると、そこには誰もいない。えっ、と誰もいない部屋で思わず声が出た。しかしその戸惑いの声はすぐに悲鳴に変わる。

 映像いっぱいに男の顔が映ったからだ。

 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン

 ガムの音は聞こえないはずなのに、
 くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ

 耳に纏わりついてしまったせいか、いつまでも止むことなく鳴り響く。
 警察……。
 でも自宅がばれてしまっている今、これ以上、怒りを買う事態は避けたい。警察が来たところで、男は大した罪には問われないだろう。

 どうしよう、どうしよう……、

 そんな俺の焦りを嘲るように、スマホから愉快な着信音が鳴った。
 俺に仕事を押し付けた件の上司だった。
 焦りと不安が瞬発的に怒りに変わった。

「そもそもお前のせいだ! お前が自分で出来もしねえ仕事を俺に押し付けるから、こんなことになるんだ!」と、それから思い付く限りの罵詈雑言を電話越しの相手に浴びせ掛けた。上司の声をひとつも聞くことなく、とにかく自分の感情だけをぶつけた。

 電話も、そして電源も切り、スマホを叩きつけた。
 明日の仕事のことなんて知るか。今は命さえ危ない状況なんだ。

 玄関前の映像をもう一度見ると、そこにはたくさんのひとの姿があった。
 どうなってんだ……?
 そこには警察の姿もあり、どういう経緯かは分からないが、男が警察に連れて行かれる姿が目に入り、とりあえずほっとする。

 警察のひと数名が部屋に来て事情を聞かれた際、俺は正直に男の標的が俺だったことを伝えた。そして事の顛末を話すと、自分と同い年のくらいの警察官に軽率な行動を注意されてしまったが、その彼は最後まで俺を気遣ってくれた。

 彼の話によると、別の部屋の住人がマンションから出ようとした際にあの男の姿が目に入り、その尋常ではない雰囲気に「不審なひとがいる」と通報したらしい。

「今度何かあったら、すぐに連絡ください」という彼の言葉を最後に、警察のひとたちは帰っていった。ほっと落ち着くと同時に、不安が現れる。冷静な感情を取り戻すと、当然、先ほどの上司への暴言が気になってくる。

 疲れのせいだ。今日はとにかく軽率な行動が多すぎる。
 まぁでも、とりあえず、いま一番の危機は乗り越えた。あの脳裏に貼り付いた音も離れつつある……。これ以上の恐怖はもう――。

 恐る恐るスマホの電源を入れると、
 異常な数の着信履歴。それはすべて上司の名前だった。

 とにかく謝ろうと、上司に電話を掛けると、電話越しから聞こえてきたのは、
 くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ

 ひとつの恐怖が終わり、新たな恐怖が始まる瞬間だった。

 何だよこれ……。ふざけるなよ……。

 もううんざりだ。
 もうどうでもいい。
 俺を、轢け、潰せ――――。さもなくば相手を――。
 轢け、潰せ。壊せ。死ね。殺せ。
 殺してやる。



「あなた、どうしたんですか? 顔が青白いですよ」
「あ、あぁいや……。最近ちょっと部下の様子がおかしくてな。もともとあまり真面目じゃなかったのに急に不必要に残業をしたりしててな。女性の社員にいきなり怒鳴ったとか、狂ったようにギャンブルに手を出してるって話を聞いたりもしてたから、ちょっと心配になって電話してみたんだが……怒鳴り散らされてしまったよ。……うん。明日、彼としっかり話し合ってみるよ」



「本音の在り処」


 夏の終わりに雪が降り、蝉の死骸が白に巻かれて、顔だけを出していた。

 じりりっ、と目覚ましのアラーム音とともに覚醒したあなたは身体を起こしながら、ゆっくりと辺りを見回し、窓越しの風景にまだ冬だと教えられる。懐かしい夢を見ていた、とあなたはちいさく溜息を吐く。

 階段を下り、鴬張りの軋む音がやたらと耳障りな床を足早に歩き、あなたは居間に続く扉へと手を触れる。戸を引くあなたが扉を開け切る前に、

 その隙間から、
「遅い」
 という冷たく、素っ気ない声が飛んだ。普段から厳しいけれど静けさを崩すことのない祖母の語気は心なしかいつもよりも荒く、あなたは今日という日の大切な何かを忘れてしまっているような不安に駆られた。

「ばあちゃん……ごめん」
「今日はお母さんの命日だから、六時には起きてこい、と言ったはずだ。娘の風上にも置けないな」

「えっ」とあなたは思わず声を出す。確かに毎年、母親の命日には親族を祖母の邸宅に集める。その準備のために早朝から家の掃除をすることになっていて、今はもう朝の八時を過ぎている。しかしあなたが驚いのはそんなことではなかった。

「お母さんが死んだの、夏だよ」
「あぁそうだ」何を言ってるんだ、という表情で祖母があなたを見る。「今は、夏だろう?」

 祖母が立ち上がりそばにあるカーテンを開けると、強い日差しと庭先の風で揺れる向日葵が夏の情景をくっきりと描き出していた。

「なんで……」とつぶやくあなたのほうへと歩いてくる祖母の表情は怒りに満ちていた。距離が近付く内にそれは無感情なものへと変わり、やがてその顔は塗りつぶされるように黒に呑み込まれていき――――、

 視界の無い世界で、「お前のせいだ」という声が反響する。

 と、そこで、
 じりりっ、と目覚ましのアラーム音が聞こえて、夢の中で夢を見ていたのだと気付き、あなたは溜息を吐く。

 時計の針は早朝の五時半を指している。

 窓越しに、もう雪は降っていない。室温の高い部屋で首すじに大量の汗が浮かんでいる。「明日はお母さんの命日だから」という言葉が起き抜けでもしっかりと頭に残っていた。

 つい最近までひどくやかましかった蝉の鳴き声が今日はまったく聞こえず、それがあなたに母の死んだ日の記憶を強く甦らせる。

 動かなくなった母は自宅に運ばれ、真っ白いふとんが身体に掛けられていた。顔に置かれた布を取って、母親の姿をじっと見つめるあなたがふいに眼を逸らして合った祖母の目には鬼気が孕まれている。

 あなたはちいさく首を振って過去を追い払い、階段を下りる。まずは祖母のいる居間に行くのが日々の習わしになっていたが、あなたはふと途中で立ち止まり、洗面所へと向かう。

 喜怒哀楽、感情のどれかが破裂しそうな時、いつもあなたは鏡の先にいる私を見るようにしていた。

 ほおを赤く腫らし、涙目で訴えかけるあなたに、
 私は、
 口の端を上げてみたのだ。

 あの日……あなたの母親の死んだ日と同じように――。

 死体となった母のそばであなたに「誰のせいかしら?」と疑問をひとかけらも感じさせないような口振りで問いかけた祖母に、あなたは必死で首を横に振ることしかできなかった。それは嘘ではなかったが、真実とも言い切れなかった。

「誰が殺したの?」

 鏡の中にいる私から眼を逸らさないあなたを呼び掛けるように、離れた場所からあなたの祖母の声が聞こえる。

 ほほ笑みを意識しながらあなたの表情をしっかりと見据える私に、
 あなたがちいさく頷き、私の見たあなたの口の端は上がっている。

「誰が殺したの? あなた? 私?」



「【増補改稿版】過去からの声」


「――――くんが、昨日の夜、亡くなりました」

 そう淡々と告げる担任の女性教諭と視線が合う。先生は口を動かし、声にならない声をぼくに聴かせた。「本当に、きみは何も知らないの?」と。そこで目を覚ます。夢が、遠い昔の久しく忘れていた情景を丁寧に描き出し、ぼくは彼を思い出す。夢でも偶然見なければ思い出すこともできないほど、世界は変わり、過去は急速に色褪せていった。

 玄関の戸を、こんこん、と叩く音は渇いている。

「たとえばきみに死が訪れる、として、何故きみはそこに希望を見出せないんだ」

 中学時代の友人だった。最近頻繁に、ぼくがひとりで暮らす物置のような家に顔を出す彼は、事あるごとにぼくを彼が所属するグループに誘い、ぼくはやんわりとそれを断り続けていた。この暗澹たる世界にもかすかにだが、まだ確かに希望は存在している。そう信じている者たちのグループがあり、彼もその集会に足繁く通うメンバーだった。彼らの作った元々は小さな集まりが、恐ろしいほど大きなコミュニティとなりつつあることは知っていたが、ぼくはそれをどこか冷めた目で見ていた。希望はある、と希望に類するあらゆるものを失ったこの世界で声高に叫ぶ姿は、滑稽にも映る反面、共感ができないわけではなかった。しかし彼らは決して「生きろ」とは言わない。現時点の世界に希望はなく、死後の世界にこそ希望があるのだ、と賛美し続け、彼らが「そうだ、そうだ」と言い合う姿はどこかカルト宗教じみている。ぼくには何ひとつ惹かれることのないものだった。

 彼を止める気はなかった。彼の残りわずかの人生を他人がとやかく言うものでもないだろう。だけどぼくも残りわずかの人生を他人に強いられる気はなかった。

 彼らの行為に惹かれないわけではない。
 世界は終焉を迎えつつある。それが人類の共通項となりはじめてからずっと、自殺者は後を絶たない。それは新聞やテレビ、SNSで数字や情報として知るだけではなく、実際にぼくの身の回りにいくらでもあった。それはカルト的に死に希望を見出したというようなものではなく、限られた生への絶望である。どうせ死ぬのだから愚かな行為だと思いつつも、心の奥底で強く共振している自分がいる。彼らにこそ、ぼくは惹かれる。そうやって自ら死を選べた者たちが羨ましい。心底、羨ましい。

 何故、きみは死を選ばないのか……?
 という内なる声に、ぼくはいつも苛まれている。

 何故、その声に抗おうとしているのか。ぼく自身分かっていない。生への執着心などすでに尽きてしまっているはずなのに、希死念慮がいつまでも行動と繋がらない。

 彼らのほうが人間らしかったのではないか。もう声高に「生きろ」と叫ぶ人間はどこにもいない。誰もがその言葉の虚しさを知っているからだ。

 不満そうな表情とともにぼくの家を出る彼の後ろ姿は年齢よりもずっと大人びていた。それは彼だけでなく、ぼくもきっとそうなのだろう。ぼくたちは環境のせいで、大人びた――あるいは達観した――雰囲気を持つようになってしまったが、年齢的に言えばまだ高校生でしかない。と言っても、長く高校には行っていない。子ども心に憧れた大人な自分は、本当に夢物語となり、ぼくたちは大人になることもなく人生を終えてしまう。希望に溢れた未来の存在しない世界で聳え立つ学び舎に何の意味があるのだろう。それはただの大きな廃棄物でしかない。学校も試験も何も無いことが楽しい、というアニメの主題歌がぼくの生まれるよりも前から存在していたけれど、実際にそれらが無くなってしまった世界は、こんなにも悲痛に満ちている。

 においが、残っている。彼が自身とともに連れてきた死の残り香が室内に充満していて、ぼくはすこしでもそれを外へ追い出したかった。窓を開けるためにカーテンに手を掛けたぼくの耳にカシャカシャと懐かしい音が聞こえた。雨音だとすぐには気付けなかった。もう長く見ていなかった、降り始めた窓越しの雨の光景に思わず息を呑んでしまったのだ。

 暗くて寒い状態が延々と続く日々の中で、快晴の空も、雨も、雪も、ほとんど見られないもなっていた。

〈ねぇ、きみは覚えてる?〉

 雨音の隙間を縫うようにして、声が聴こえた。幼いその声には聞き馴染みがあるが、持ち主はもういないはずだった。

 夢が記憶を刺激して、幻聴でも生んだのだろうか?

 ぼくは雨音に耳をそばだてながら、まだ大人になれると信じて疑わなかった頃を思い出していた。誰かと一緒に行動することが苦手だった小学生の頃のぼくには、たったひとり親友と呼べる少年がいた。彼は今の世界を知ることもなく、この世を去った。そんな彼はもしかしたら幸せだったかもしれない、と思ってしまう自分勝手な感情に嫌悪感を抱く。

 墓地のそばに建てられたぼくたちの過ごした小学校には、夜、幽霊が出没する。ある時期にわくように現れたその噂に惹かれたぼくたちは、夜の学校に忍び込んだ。あの日も雨で、不在の、しんと静まり返った校舎の窓を叩く雨の音はひどくうるさかった。

 ぼくたちは普段からそんな突飛な行動を取るような生徒ではなかった。ただ好奇心は人一倍強かったのかもしれない。恐怖を超えた好奇心を原動力にして、ぼくたちは夜の学校を歩き回った。

 幽霊が出る、と噂になっていたのは、三階の端にある今は使われていない教室だった。宿直の先生に見つかってはいけない、という不安もあり、お互いの靴音にさえ気を付けながらぼくたちは行動した。

 しかし、
 結局ぼくたちがその目標の教室に辿りつくことはなかった。

 宿直の先生に見つかったからだ。いや実際に相手の顔を見たわけではなく、L字型の廊下を曲がろうとする際に明かりを持った誰かが反対側を歩いて来ていることに気付いて、ぼくたちは隠れる場所も見つけられず、走って逃げるしかなかったのだ。走る音で相手に気付かれたぼくたちは静止の声を無視して、とにかく走った。

 小学校の頃、サッカーのクラブチームに入っていたぼくのほうが、一緒に逃げる彼よりもわずかに足が速く、ぼくと彼の距離が開いていくのは明らかに背中で感じ取っていたが、彼を気に掛ける余裕はなかった。

 ぼくが階段を駆け下りて、正面玄関辺りに着いた時、階段のほうから大きな音が聞こえた。転げ落ちるような音だと分かっていながら、ぼくは振り返ることなく、走り続けた。後ろから誰も追ってくる気配はなく、ぼくは雨を全身に浴びながら、家に帰った。両親からはかなりきつめに怒られたが、それでもぼくは、のほほんと、今頃、彼は先生にこってり絞られているだろうな、と考えていたのだ。

「――――くんが、昨日の夜、亡くなりました」

 そんなぼくの感情を突き落とすように、翌日の朝、担任の先生が淡々と告げた。それは決して大きな声ではなかったが、教室内によく響いた。先生は生徒全体を見回しているようで、実はそうではないことに気付いた。先生は明らかにぼくの様子を気にしているように見えた。

「本当に、きみは何も知らないの?」と。

 あの時もしも――。そんな考えが何度も頭に浮かんだ。あの時、振り返っていたら……。すぐに駆け寄っていたら……。もしもそんな行動が取れていたら、彼は生きていたのだろうか、と。いや結果は変わらなかったに違いない。そう言い聞かせても、自分の気持ちが晴れることはなかった。見捨てたという事実が変わることはないのだから。

 気付けば、ぼくは傘も差さずにかつてぼくたちが通っていた小学校を訪れていた。あの頃と同じようにずぶ濡れになっても、気遣ってくれる家族はもういない。

 日中でもひとの気配はまるでなく、ただ死んだようにひっそりと建っている。今の生徒たちは学校に籍が残っているだけで、書類上の存在に過ぎない。もう誰も通わない学校はどれだけ良く言っても廃校という表現が限界だ。

 髪や服から垂れる雫がぽたぽたと廊下の床を濡らす。彼が転倒し、命を落とした階段を通り過ぎ、ぼくはあの日ぼくたちが辿りつけなかった教室を目指した。そこに深い意味なんてなかった。

 残念ながら、その教室は閉ざされ、開くことができないようになっていた。ぼくはふぅと溜息を吐き、校舎の三階の窓から学校の隣にある墓地を見下ろす。

 そこに見知った顔を見つけた。

 傘を差したその女性はぼくが見ていることなど、もちろん知らないだろう。ぼくがどれだけ驚いているのか、もちろん気付いてもくれないだろう。女性はひとつの墓の前で、手を合わせ、花束を置き、車に乗り込み、去っていく。

 ぼくは早足で、女性のいた場所を目指す。墓の前には花束が捧げられていた。そして花束と一緒にプラスチックの袋に入ったメッセージカードが添えられ、そこには謝罪の言葉が書かれている。

『もう七年も経ちましたね』
 そんな風に言葉は始まっている。

 短い文章からは毎年彼の命日に彼の死を悼む先生の深い後悔が読み取れる。

 何故? そんなこと考えるまでもなかった。あのひとがあの夜、宿直で見回っていた先生だった。そう考えるより他にないじゃないか。

 あぁそうだ……もう世界がこんな状況になって、人の死が軽いものになってから三年が経つ。死があまりにも身近になり過ぎてしまって、ぼくは簡単に彼のことを忘れてしまったその間も、先生は彼の死と向き合い続けてきたのだ。

 息苦しいほどのこれは罪悪感だろうか……?
 雨に混じって流れた涙は、雨に混じって行方を失っていく。

「ごめん。忘れてて」

〈仕方ない。許してやる〉

 呆れたような声はきっと幻聴だろう。そんな都合の良い話なんてあるわけない。

 彼は、許してくれないかもしれない。草葉の陰でぼくへの恨みを募らせ続けているかもしれない。それでも……たとえそれでも、今日、彼の命日にここに来られて良かったと思っている。

 世界の終わり。そのカウントダウンは始まっている。来年どうなっているかの保証なんてないけれど、来年まだ世界が終わっていなかったら、ぼくも花束を携えてこの場所を訪れよう。来年、花束はふたつになっているはずだ。それまでは自ら死を選ぶわけにはいかない。

 何故、きみは死を選ばないのか?

 内なる声に抗ってきた理由がすこしだけ分かった気がする。ぼくにはまだやり残したことがある。長い短いなんて関係ない。彼との出来事を思い出した今日のように、忘れているだけ、気付いていないだけ……そんなことがまだまだあるような気がする以上、死んでなんていられない。

 正しいかどうかなんて分からないが、私は今日も、生を選ぶ。