僕が見た怪物たち1997-2018 第三話「二流には分からない、2012」まとめ読み版(約13000字)


 暑い。

 それまで冷房が効き過ぎて、寒いくらいの室内にいたからか、余計にそう感じてしまう。夏の夜気は生温く不快で、すでにささくれ立っていたあたしの負の感情はさらに増していく。

 こんな寂れたような雑居ビルに通い詰める姿なんて知り合いには絶対に見られたくないし、もしもここで何をやっているかばれてしまったら、あたしはそのひとから距離を取るだろう。もう話してやるもんか。ほとんどのひとはたぶん知られたところで、別に気にしないよ、なんて言ってくれるだろうけれど、あたし自身のプライドが許さない。

 それも全部あいつのせいだ。

『ゆっくりと、あなたの話したいことを私に言ってくれればいいの。ただ嘘はつかないこと。嘘が真になるじゃないけれど、自分でついた嘘が自らの心を苛んでいくことがあるから、それはあなたのためにも良くない』

 インターネット上の知り合いを通じて、そのカウンセラーのことを知ったのは半年ほど前だった。それまで通っていたカウンセリングルームの先生は悪いひととは思わないものの相性が合わず、場所を変えたかったあたしは、精神的にもだいぶ参っていたこともあって、怪しい雰囲気は承知のうえで、一部では有名な人物らしい、そのカウンセラーを頼ってみることにしたのだ。

 カウンセラーとしてそれはどうなんだろうか、と思うほど、隠しきれない威圧的な雰囲気を持ちながらも、ただ声音は耳に心地よく心を落ち着かせてくれて、相槌のうまさもあり、話しやすい相手だった。うっかり全部を打ち明けてしまいたくなりそうな気持ちになってしまう。

 見上げると濁りを混ぜたような藍色の雲の先に半月が浮かんでいる。

 駅を下りて、家路につく足取りは重い。いや……大丈夫だ。もう最近はあいつの姿を見ていない。さすがにあそこまで言えば、あいつだって諦めるはずだ。

 いつも帰り道に通る商店街はそのほとんどが営業時間を終えて、死んだよう、と表現がぴったりと当てはまる景色を形作っていた。

 こつ、こつ……。こつ、こつ……。

 あたしを怯えさせ続ける音が背後に聞こえる。もうそれだけで相手が誰だか分かるほどに聞き馴染みのある足音になってしまった。

 こつ、こつ……。こつこつ。こつこつこつ。

 不安定に鳴る靴音が、すこしずつ近付いてくる。縮まってくる距離に、あたしの不安と緊張は増していく。

 あたしは足を止めず、振り返ることもせず、そんな足音など存在しないような振りをしながら、自宅のマンションを目指す。

 いつまでも消えないその靴音のストレスは、はけ口もなく、胃の奥に怒りとなって溜まる一方だった。

 普段よりもその道のりはずっと長く感じられて、自宅の前まで着いた時には、ようやくか……、という気持ちになった。そこであたしは、後ろを振り向こう、と決めた。一矢報いてやる、ほどの覚悟を持った行動ではなく、靴音の主がまず間違いなくあたしの想像通りだとしても、一目見てはっきりとさせておきたい、と思ったのだ。

「誰!」

 意識した大きめの声とともにあたしが振り向くと、予想していた通りの人物がいた。街灯に照らされたその男は笑っている。笑っている、と言っても、ただ口の端を歪めているだけの、相手に不快感を与えるような粘っこい表情だ。彼が着ていたのは初めて会った時と同じ、夜の闇に同化しそうな黒いフード付きのパーカーで、そのポケットに手を突っ込みながら、何も言わずにじっとあたしの顔を見つめている。

 確認は終わった。今までの行動パターンを考えれば、マンションに入ってしまえば、彼は帰るはずだ。これからどうするかはマンションに入ってから考えよう。

 小走りにマンションの中に足を踏み入れ、オートロックになっている玄関を開けようとした、何かが手首を掴んだ。それは手だった。誰の手か、なんて考えるまでもない。

 あたしは思わず悲鳴を上げた……つもりになっていただけで、恐怖のあまり声が実際に口から外に放たれることはなかった。



 時計の短針と長針が重なった時、あたしの頭の中で警告にも似た鐘の音が鳴る。

 足もとを見ると、ひっ、と情けない声が漏れる。毎日ではないが、頻繁に現れるそいつに、あたしはいまだに慣れることができずにいる。足もとに目を向けると、薄暗い部屋に茶褐色のフローリングという場所でも目立つ赤黒いしみのようなものが、人の顔らしき形を作っていた。その顔をあたしは知っている。夜中のたった数時間程度のことだが、一度見てしまうと、そいつが消えるまでの時間は数日間の出来事ようにも感じてしまう。

 真夜中零時を過ぎると現れるそいつに、ここ数年、あたしは悩まされ続けてきた。

 この顔は、あたしの人生の汚点だ。

 気のせいだ、と思い込もうとした時期もあった。カーペットでその部分を覆い隠して、そんなしみなど存在しないもののように扱ってみたこともあったが、一時しのぎにしかならず、次は壁に、次は天井に、と結局そいつはあたしの視界のどこかに入り込んできて、解決策にならないと知り、そういった対策はもうやめてしまった。

 耐え切れず住む場所を変えても、そいつは追い掛けてきた。そのしみが狙うのはあたしであり、住む場所がどこかなど、どうでもいいに違いない。あたしはそれを知っているからこそ、落胆こそあったが驚きはすくなかった。

 恐怖はいつまでも変わらずにあったものの、その恐怖と同じくらいに、そいつに対する憎しみが日に日に強まっていく自身の心の内にも気付いている。

 だってあたしはこの顔を知っている。

 なんであたしばっかりこんな目に遭わなければいけないの……。死んでもなお、彼はあたしの心を苛んでいく。

 真夜中の来訪を告げるインターフォンの音が鳴り、突然の、予想もしていなかった音に、あたしの口から思わず、ひっ、というさっきと同じ声が、さっきよりも大きな声で出てしまった。ぴんぽーん、と高く響くこの音が本当に嫌いだ。あたしはドアホンのモニターから来訪者の片割れの顔を確認して、安堵とともにオートロックのドアを開ける。そして玄関のドアの前でいまから来るふたり組を待つことにした。

 ひとりは顔さえも知らない相手なので、やはり緊張してしまう。

「あら、そんな部屋の前で待っていなくてもいいのに」

「いえ、そんな。ずっとお待ちしていました」

 実際は母親と息子くらいに年齢が離れているはずだが、外見からは姉弟ほどにしか変わらないように見える男女のふたり組は、独特な雰囲気を纏っていた。男性のほうはあたしとそれほど年齢も変わらないような見た目で、この若い男とはすでに何度か会っていて顔は知っていたのだが、ふたりが揃った状態で見ると、より不思議な印象を抱いてしまう。

「ごめんね。事前に連絡もなく、急に来て。どうしても嫌な予感がしたものだから。近くを通った時に嫌な予感がして」

「そちらのコウさんから、急に行くことがあるかもしれない、と聞いていたので大丈夫です」

 でも電話一本くらい事前に……、というのが本音だった。もし不在だったらどうするつもりだったら、諦めて帰るつもりだったのだろうか。

 真夜中に不似合いなサングラスを掛けたその女性の背後に立つ、若い男がちいさく頭を下げる。長髪の彼の本名を、あたしは知らないのだが、彼が初めて会った時にコウと呼んで欲しい、と言っていたので、それに従うことにしていた。本名ではない、という含みを持たせた名乗り方だったので、おそらく偽名だろう。コウさんが鋭いまなざしをあたしに送っている。怒っているわけではなく、それが元々の表情なのだろう。

「まぁ、とりあえず入っても大丈夫?」

 この女性こそあたしが求めていた相手なのだが、彼女のことをあたしは言葉のうえでしか知らず、実際にその顔を見るのは初めてのはずなのに、声には聞き覚えがあった。

「先生、来てくれてありがとうございます」

 置いた座布団のうえに正座する、先生、の姿を、あたしがじっと見つめていると、

「どうしたの? そんなに見つめられると、照れる」

 と、先生が薄い笑みを浮かべた。

 先生、と呼ぶことは、先日コウさんと会った時に厳命されていた。

 先生。
 
 あたしが先生と呼ぶそのひとは、教師でもなければ医者でもなく、もちろん政治家でもない。ただ、いまのあたしにとってはそのどれよりも、先生、として敬うべき相手だった。とは言っても、何をしている人間か、というと、これも一言で説明するのが難しく、カウンセラー、占い師、霊能者、探偵……など、ひとつの役割ではなく、ひとりで多くの役割を兼ねながら、その多くの界隈で、それなりに名を馳せている女性だった。

「あ、すみません……。こんな綺麗なひと、初めて見た、と思って」

 それはお世辞ではなく本音だった。サングラスを掛けていて目元までは分からないが、女性のあたしから見てもはっと目を惹くほどの美しさは、一度見てしまうともう忘れられない、と思ってしまうほどに印象的だった。その美しさは、世俗的なものから距離を取ったような人形を思わせるもので、そんなことを本人に伝えれば怒ってしまうだろうことをあたしは考えてしまっていた。ただ先生は多くの貴金属を身に纏っていて、その無機物が放つ煌びやかさが、何故か反対にそのひとを人間のように思わせてくれる。

「あら? 初めて?」

「違うんですか……?」

「あぁそうか、これで分かる?」

 と、先生が掛けていたサングラスを外して、あたしを見る。

 そのひとをあたしは知っている。

 数年前、あたしが大学生だった頃にお世話になったカウンセラーの先生だ。その時はサングラスもしていなくて、派手な格好をしていなかったのですぐには気付けなかったが、サングラスを取った彼女の顔は、あの時のまま、見間違えようもない。

「先生……。急に行かなくなってしまって、すみません」

「いえ、そういうひとはめずらしくないから、気にしなくて大丈夫」

 あの時、カウンセリングの先生として相談に乗ってもらっていた人物が、いまは霊能者としてあたしの目の前にいる。それは不思議な感覚だった。その時は鈴木だったか佐藤だったか、そんな風に名乗っていたはずだが、それはきっと偽名なのだろう。あれが本当の名前ならば、いまさら隠す必要はないし、気付いていないあたしに面識があることを伝えたりしないだろう。

 あたしが相談に行かなくなった理由はひとつ、行く必要がなくなったからだ。

 彼の死によって……。



 知り合いだった、という事実に、話すうえでの安心感は覚えたものの、重要なのは、先生が霊能者として本当に頼りになる人物かどうか、ということだ。本物なのかどうか。先生が詐欺師と糾弾されてもおかしくないほど高額な報酬を取ることは除霊を頼む前から知っていて、実際、窓口代わりとして何度か事前にやり取りを交わしていたコウさんから提示された金額を見た時には、詐欺師と思われるのも仕方のないような額に驚いてしまった。いままでに何人かの霊能者に頼ってきたが、その中で、もっとも高かった。

 先生は多忙なので除霊の時にしか会えない。そんな風に聞かされながら、先生、なんて実は存在しないのでは、と不安に思っていたところもある。成功報酬しか要らない、と言われていなかったら、途中で断っていたはずだ。

 もうひとつ理由があるとしたら、オカルト系雑誌の編集者をしていた知り合いから教えてもらった、というのも大きい。彼女は、それなりに業界に精通しているので、変なひとは紹介しないだろう、とも思ったのだ。姉が無類のオカルト好きだった影響で心霊関係に興味を持った、という人物なのだが、その子の年齢の離れた姉は不審な死を遂げているらしく、その死の原因をいまも探っている、と聞いたことがある。そういう子の前にこそ、幽霊も現れてあげればいいのに……。

 いつもより信頼はできそう。……でも、やっぱり疑ってしまう。

 だっていまも下を向けば、そいつがにやけた顔であたしを見ているのに、先生が気にする素振りはひとつもないのだから。ふたりは本当に何も感じないのだろうか。やっぱり、この先生も名ばかりの存在なのか。

 先生と話しながらも、あたしはときおり後ろのコウさんに目を向ける。静けさを保ったままだが、どうもあたしは彼から好かれていないような気がする。

「実は、マンションに近付くうちに、嫌な気がどんどんと高まっていくのには気付いていたの。いえ、実は事前に彼を通じて話を聞かされた時から急いだほうがいいかもしれない、という思いはあったのだけれど、私のほうも抱えている仕事が溜まっていたもので……」

「いえ、そんな」

「よく我慢しましたね。長い間、こんな恐怖に曝されながらも耐えてきたあなたの精神力が私には信じられないくらい」

 そう言った先生の目は、あたしではなく、床へと、そしてそいつの顔へと向けられていた。

 いままでお願いした霊能者の中には、彼女と同じくらい名のある人物もその顔の位置を指し示せるひとさえも稀だった。

 あっ、このひとは本物かもしれない。信用できるかもしれない。

 そう思った途端、

「怖かった……」

 あたしは情けなく言葉を漏らしていた。

 先生があたしに近付く。先生の伸ばされた手が、あたしの頬に触れる。その手のひらはひんやりとしていて、だけど心地よく、指のお腹の部分があたしの目じりを撫でた。

「泣かなくても大丈夫。よく頑張りましたね」

「ありがとうございます……」

「除霊ももちろん行いますが、私どもは、依頼主の心のケアをそれ以上に大切に思っています。何より私はカウンセラーでもありますから、ね」

 抱きしめられている、と気付いたのは、抱きしめられてすこし経ったあとだった。先生の手があたしの頭を触り、それがとても心地よかった。まるで幼い頃に戻ったかのように心が落ち着いていく。そんなあたしたちの姿を見ながら、コウさんは表情ひとつ変えない。

「先生は、彼がどこにいるか分かっているんですよね?」

「もちろん。その低い怨嗟の声まではっきりと聞き取ることができる。引っ越しても追い掛けてくる、と聞いたけれど――」そこで先生は背後のコウさんをちらりと見た。あたしがコウさんに話したことはすべて事前に聞いているのだろう。「彼にとって、建物なんてどうでもいいんでしょうね。夜中の部屋が一番あなたとふたりきりになれる、と思って、そうしているのかもしれない。理由までは本人にしか分からないことだし、残念ながら彼の真意まで聞き取ることはできないけど、ね。とにかく重要なのは、あなたへの執着心のみで現世に留まり続けている、ということ。まったく厄介な相手に」

 先生の温もりがあたしから離れていき、それがとても名残り惜しい。

「執着心……、やっぱりあたしは恨まれているんですね」

 それはそうだろう。

 あたしに憑き続けるそいつはあたしの人生で、誰よりもあたしを愛した男だ、と断言できる。腹の立つほど一方的なその愛は、あたしにとって迷惑以外の何物でもなかった。

「ただの逆恨み。そうですよね?」

 それは、いままで沈黙を貫いていたコウさんの言葉だ。

「は、はい……」

「まぁ、とりあえずコウが聞いたことは私の耳にもちろん入っているけれど、もう一度、ちゃんとあなたの口から聞きたいな。伝聞と直接聞くので、印象もまったく変わってくるから」

 まだ床に染み付くそいつはあたしたちを見ながら歪んだ笑みを浮かべていて、本音を言えば急いでこっちを何とかして欲しいのだけれど、先生はこういう相手に慣れているのか気にした風もなかった。

「分かりました……」

「あぁ、ただ嘘だけはつかないでね。私は幽霊の存在だけじゃなく、ひとの嘘だって見抜きますし、私はこの仕事において一番大事なのはお互いの信頼関係だと思っているの。ごめんね。正直、私の覚えているカウンセリングに来ていた時のあなたって、本心を隠しがちな子、って印象だったから。たとえ何を聞いてもあなたを責めたりしないから、お願いね」

 あたしはその言葉にどきりとしつつも、頷き、

「嘘はつきませんし、全部ちゃんと話します」

 と答えた。

 あたしはカウンセリングの時に隠していたことも含めて先生に伝えようと、あの日の光景を頭に浮かべる。



 いまではその頃の知識がなんら役に立たない中小企業で働く会社員でしかないけれど、当時のあたしは弁護士の青写真も描けるくらいには優秀な、それなりに名の知れた大学の法学部に通う女子大生だった。

 才色兼備、として周囲から羨望や嫉妬の目を向けられ、当時は多少そのことを鼻に掛けているような人間だった。周囲を見下して、どこか高嶺の花を気取り、それを自覚していながら、何が悪いの、と開き直っていたあの頃の自分ほどひた隠しにしたい黒歴史はない。井の中の蛙、という言葉があるけれど、こういう状態の時、上には上がそこら中にいるのに、その上には、まったく気付かなくなる。

 ひどい勘違いした過去のあたし自身こそ、人生で一番嫌いな人間だった。

 彼と出会ったのは、そんな時期だ。もし彼と出会えたことで良かった点を無理にでも探すならば、目立つことへの恐怖で、過去の自分の嫌な感じを自覚できたことだろう。

 彼は、学校の中にいてもその景色の一部と化してしまうような地味な青年で、井坂くん、という名前だった。

 どうしても、と頼まれて気乗りはしなかったけれど参加した合コンで、同じくあまり楽しんでいるように見えない姿で居酒屋のテーブルの端に座っていたのが井坂くんで、明らかに数合わせと分かる雰囲気を隠そうともせずその場にいた彼に話し掛けたきっかけまでは覚えていないけれど、酒に酔った勢いと当時の傲慢さが合わさって、いっちょこいつで楽しんでやるか、なんて気持ちになったのかもしれない。いまとなっては当時の感情なんてほとんど覚えていないけれど、あの頃のあたしはそのくらいのことを平気でやりかねない人間だった。

「合コンなんて来るの、初めてだから……」

 あたしに話し掛けられると、ぎこちなく笑みを浮かべたその表情が、馴れ馴れしく近付いてくる他の男よりも好感が持てて、それに趣味がゲームとスポーツ観戦ということで、偶然趣味が同じだったこともあり、彼との会話は純粋に楽しかった。

 結局その合コンの間はほとんど井坂くんとばかりしゃべって、他の男性陣は明らかに不愉快そうだったけれど、逆に意気投合している私たちの姿を見て喜んだのはあたし以外の女性たちで、きっとライバルが減ると思ったのだろう、囃し立てられたあたしたちは会の途中で抜けるようにふたりで一緒に帰ることになってしまった。

 自宅のマンションまで送ってもらう帰り道で、あたしは彼と連絡先を交換して、定期的に会うようになったのだけれど、あたしにとって彼はあくまでもちょっと気の合う友達で、それ以上でも以下でもなかった。

「付き合って欲しい」

「何、勘違いしてるの? あたし、付き合ってるひといるから」

 彼にそう言われた時、断ることへのためらいはなかった。当時、あたしは誰とも付き合ってはなかったので、この断りの文句には嘘が混じっているのだけれど、この言い方をすれば彼も粘りづらくなるだろう、と思ったのだ。申し訳ないな、という気持ちはあった。でも、できる限り冷たい口調を心掛けた。

 とはいえ、いままで彼氏の存在をにおわせたことなんて一度もなかったので、すぐには納得してくれないだろう、と不安もあったのだけれど、

「うん。分かった。ごめん、変なこと言って」

 と意外にも簡単に納得されて、拍子抜けしてしまった。友達関係を続ける中で、彼はちょっと執着心が強そうだ、と感じている部分もあったので、その態度にすごくほっとしたのを覚えている。

 でも、悪夢のはじまりは、そこからだった。

「友達関係は続けていけないかな……」

 翌日の夜だった。急に連絡もなく彼が訪ねてきて、インターフォン越しに、そう言ったのだ。きのうの物分かりの良い態度もあって、不用心にも玄関の戸を開けてしまったあたしは彼の瞳の奥に宿った狂気をかいま見てしまい、部屋には絶対に上げてはいけない、と本能的に悟った。

「無理だよ。そんなの」

 部屋の前で彼と向かい合いながら、何かあった時は隣人に聞こえるくらいの大声を出そうと思っていたが、さすがにそんな事態になることはなく、彼は、

「そう。そうだよね。ごめん」

 と、また素直に引き下がる。だけど今度はひとつも安心できず、言葉とは裏腹に引き下がる気の一切感じられない歪んだ表情がただただ怖かった。

 それ以降、あたしは彼から無言電話や明らかな尾行という嫌がらせを日常的に受けるようになった。それをすることで彼に何の得があるのだろうか、と考えたところで、きっとあたしに理解できるようなものではないはずだ。ストーカーとはそういうものだ、と割り切って対応したほうが精神的にずっと楽で、警察に行くことをほのめかすと、いったん彼はあたしに近付くのをやめたのだけれど、それも一時だけのことで、また彼はあたしの目の前に現れ、前よりも行為はひどくなる。あたしの心はおかしくなりそうだった。夜中に何度もインターフォンを押して、確認しようとすると、その姿が消えている、というのを繰り返される、なんていう嫌がらせもあった。

 ぴんぽーん……、ぴんぽーん……!

 もともと好きではなかったインターフォンの音が吐き気を催すほど嫌いになったのは、間違いなくこの出来事がきっかけで、最近はだいぶ落ち着いてきたけれど、いまだに唐突な音に対する精神的な負荷は他のひとに比べてかなり大きい。

 警察には頼りたくなかった。

 この時期のあたしは決して品行方正な生活をしていたとは言えなかったし、それにあたしの知り合いで同じような被害に遭っていた子が、警察に相談したら説教されるだけでまともに相手をしてもらえなかった、と怒っていた記憶があって警察への不信感もあった。悩んだ末に、あたしは知り合いの男性にお願いして、かなり強めに直接注意してもらったのだけれど……、

 またそれも、収まったのはすこしの間だけだった。

 あれは先生のカウンセリングの後だったはずだ。

 あの日が訪れて、あたしは――。



 そこまで話したところで、あたしは言葉がつっかえてしまい、そんなあたしの背中を先生がさすってくれた。ここまで踏み込んで誰かに話したのは、初めてかもしれない。あの日々のことを思い返すだけでもぐったりとしてしまうのに、今回は口にして外に出さなければならない。言葉にすることでより鮮明になった記憶に、あたしは想像以上の緊張と不安を感じていたみたいだ。

「大丈夫?」

「は、はい。ありがとうございます。大丈夫です。すみません」

「一気にしゃべったから、疲れてしまったのかな? ……話は続けられそう?」

「もうすこしで終わるので、問題ないです」

「じゃあ、ゆっくりでいいから」

「はい……あの日です。先生とのカウンセリングが終わったあとでした。帰りの途中から、彼に尾行されていることには気付いていました」

「最後に私のところに来た日?」

「はい。もうさすがにあたしを狙ったりはしないだろう、と思っていたんですけど……。友達に頼んであそこまで言ってもらったのに……」言ってもらっただけじゃない……。あそこまでやってもらったのだから……。でもそんなこと他人には言えない。「彼、家まで付いてきて……。オートロックの扉を急いで開けて、その先に逃げ込もうとした時に、腕を掴まれてしまって……。慌てて大声で叫ぼうとしたんですけど、そしたら今度は腕を掴んでいないほうの手であたしの口を塞いできて。大丈夫。もう終わりだから。もうすこしだけ我慢して、って、耳もとで彼が言ったんです。殺される、って思いました……。でもなんでか分からないんですけど、彼があたしから手を離して、逃げていったんです。なんで逃げたのかも分かりませんし、彼のその言葉の意味も分かりませんでした。ただあの言葉は、あたしのことを殺すぞ、っていう予告だったんじゃないか。そんな風に思えて」

「確かに、ね。でも……、なんで彼は逃げたのかしら」

 あたしではなく、床の顔を見ながら、先生が言った。物言わぬそいつが何かを答えてくれることはない。あたしの背中にひと筋の汗がつたう。

「さぁ……、それはあたしにも……。えぇ、っと、それで……」

「気にしないで、ゆっくりで大丈夫だから」

 先生の声音は優しい色をしていたけれど、しっかりと先を促してくる。

 あたしは、大きく息を吐く。

「彼が死んだのは、それからすぐのことです」

「……急ね。とても」

「あたしにとっても急でしたから。その一件があった数日後だったと思いますが、彼があたしの部屋で死んでいたんです。彼が、どうやって侵入したのかも知りません。ナイフで胸を突き立てて。警察は自殺と判断しました。第一発見者は当然あたしだったので、警察からは根掘り葉掘り聞かれてしまいましたが……」

「そう、その結果として生まれたのが、こいつなのね」

「嫌な言い方なのは分かっているんですけど、あたし、彼が死んで、本当にほっとしたんです。あぁ、やっと解放される、って……。でも甘かったですね。これであたしの話は終わりです」

「分かった。ありがとう。色々と話してくれて。気になることもあったから、確認したくて。大丈夫、この程度のやつなら、簡単に消せるから心配しないで。すぐに済む」

 すぐに済む……?

 その言葉を素直に信じてもいいのだろうか。その疑いは実際に先生の力を目の当たりにするなかで、徐々に消え去っていく。先生が床の赤黒いしみに手を乗せると、部屋中に悲鳴のような音が響いた。隣人からクレームが来そうなくらいの音だけど、きっとこの顔が見えているあたしたちにしか聞こえないのだろう。それから五分くらいだろうか、その部分はフローリングの茶褐色を取り戻し、もうそこにしみはない。

 簡単に消せる、という言葉通り、あっけなく終わってしまい、あたしは拍子抜けしたような気分になってしまった。

「大体いつもこんなものかな」

「あ、ありがとうございます!」

「三十分をこえることなんて、まず、ないかな。いつもすぐ終わるの。まぁ自分でもかなりの額を取っている自覚はあるから、法外だって喚くひとの気持ちも分かるんだけどね。結構いるのよ、そういうひと」

 法外なんて、欠片も思わない。

 地獄のような日々から救ってくれたことに対する感謝しかない。この嬉しさから比べれば、値段など微々たるものだ。

「じゃあね」

 駐車場でふたりを見送る際、高級外車の助手席に乗り込んだ先生が窓をすこし開けて言った。そして言葉とともにジェスチャーを示すように片手を上げる。

 あたしが頭を下げた瞬間、ちいさな溜め息が聞こえた。えっ、と思って顔を上げた時には、もう車は動き始めていて、気のせい、と結論付けることしかできなかった。

 部屋に戻る。

 当然そこに、赤黒い顔はない。



 大きく深呼吸する。

 鏡を見れば、きっとあたしは満面の笑みを浮かべていることだろう。もうあの顔に一喜一憂しなくていい。

 それにしても……、

 こんなにもうまくいくなんて思わなかった。霊能者に依頼するのはこれで何人目だったか、もうはっきりとは覚えていない。いままで頼んできた奴らが総じて三流だとすれば、先生は二流程度だろう。偉そうな雰囲気だったけれど、一流にはほど遠いな。だって……。

 まぁあたしのとってはこれ以上ないほど、好都合な相手なわけだし、文句はひとつもない。そう……、あの二流の先生こそ、あたしが求め続けてきた相手だ。

 何が、ひとの嘘だって見抜きます、だ。あぁ駄目だ、本当に笑いが止まらない。まぁ、すこしは疑っていたみたいだけど、真相に辿り着けなれば、一緒だ。残念だったね、先生。

 あんたは一流の皮を被った二流でしかなかった、ってことだよ。本当に感謝はしているんだけど、それでもやっぱり見ていて滑稽だったね。

 あぁ、先生にもし一流なところがあるとしたら、まぁ……、あたしの役に立つ、って意味じゃ、どこまでも一流だ。

 手のひらにはまだ、真っ赤に染められた血の記憶が残っている。

 あいつは自殺なんかしていない。自殺するような人間なんかじゃない。あいつはあたしが殺した。でもあたしは悪くない。悪くない悪くない悪くない。絶対に悪くない。

『大丈夫。もう終わりだから。もうすこしだけ我慢して』

 あの日、オートロックのドア先に逃げ込もうとしたあたしの手を掴んで、あいつはそう言った。あたしを自分の身体のそばに強く引き寄せて、あいつの震える手で揺れるナイフが青白くきらめいていた。首筋に当てられた時の、あのひんやりとした感覚はいまも残っている。騒がないでね、と穏やかな口調であたしの耳もとに囁いて、凶器と狂気に脅されたあたしは、部屋に入ろうとするあいつを拒絶できなかった。

 心中しよう。

 と言われた時、あたしは絶対に嫌だと思い、その場で必死にもがき……。

 揉み合いになって、最後に血塗られたナイフを手にしていたのは、あたしだった。

 死ぬなら勝手にひとりで死ねよ。こっちを巻き込むな。

 もちろん殺す気があっての行動じゃなかった。殺意はひとつもなかった、と誓って言える。だけど事実としてあたしの殺した死体が目の前にあり、それが正当防衛だと信じてもらえる保証は何ひとつなく、こんな時に多少付けた半端な法律知識は役に立たない。自首したら状況が状況だけに、仮に正当防衛が認められなかったとしても、情けをかけてもらえるだろうか。

 ……嫌だ。

 こんな奴のために、欠片でも罰は受けたくない。

 ナイフの柄とか、揉み合った時に付着しただろう指紋で気づいた部分は拭き取り、ナイフや死体の位置を変え、可能な限り自殺に見えるように心掛けたけれど、あたしが死体に対して持っている知識はミステリ小説やドラマ程度で、細工は本当に簡単なものでしかなかった。

 誤魔化せる自信はなく、諦めの気持ちも大きかったけれど、あいつの死は自殺と判断された。

 あいつがストーカーであたしが被害者、という事実に加えて、あいつの自宅から自殺をほのめかす内容の日記が出てきたことも大きい。

 すべてがあたしに運の向く形だったわけだけど、そもそも、殺されそうになった時点でひどく不運なのだから、それを思い出すと、何とも言えないような気持ちになってしまう。さらに死んだあとも、幽霊となって憑き纏われ続けるのだから。

 あの赤黒いしみとなった顔を見るたびに、あたしは何も言わないその顔から声なき声を聞く。幻聴ではないだろう。表情はときに声よりもおしゃべりになる。

『人殺し。俺は絶対にお前を許さない……』

 先生は怨嗟の声まで聞き取れるなんて言っていたけれど、本当にあいつの声を聞いたのなら教えて欲しいものだ。

 ありがとう、最高だよ。二流の先生。

 どこまでもあたしは相手選びに慎重だった。万が一にもあたしの罪が露見してしまうことがあってはいけない。絶対にばれたくない。本当に能力のあるひと、勘の良いひと、鋭いひとならば、あたしの嘘にもしかしたら気付くかもしれない。だから自然と選ぶ霊能者は名が知れつつも、人格的に難のよく見える人間ばかりになった。金にがめつい、なんて、まさにそうだ。そういう相手ならば仮に犯罪の事実に気付いてしまったとしても、向こうにも後ろ暗いところがあるだろうから、正義感から警察に、とはならない可能性が高いからだ。

 だけど、これまでの奴らは、本当に能力のない三流ばかりだった。

 今回こそあたしがこれまで求め続けてきた、

 理想の、二流のひと。

 あたしの歓喜に水を差すように、スマホの着信音が鳴り、表示された番号を見ると、知らない番号だった。

「はい――」

『あなたごときが、調子に乗らないでね』

 もしもし、と続けようとした言葉は、相手の言葉によってさえぎられる。

 低めの男性の声だ。誰……?

「何を……」

『この一言は、先生からの伝言です。嘘はいけません。先生なら、いえ助手の自分でさえ、あなた程度の嘘なら見抜けます。あなたの良心を試したくて、もう一度、確認させてもらったのですが、残念ながらまた嘘をついた。それもひどく信頼を裏切るような嘘を。最初に会った時、言いましたよね。依頼人との間に信頼関係をきちんと築けているか、というのは、この業界、そして先生にとって、何よりも大切なことですから。もちろん正義感なんて我々には欠片もありませんよ。そんなものより、真摯さや誠実さを見たかったのです。初めて会った時点で、あなたの嘘には気付きました。それでも……、もともとあなたは被害者ですから、真実を話してくれたら、ちゃんと除霊してあげよう、って先生が言ってくれたんです。あなたの口から真実が聞けることを祈っていたんですが、残念です……個人的にも……本当に残念です……』

 これがあのコウさんだろうか、と思うほど、饒舌な語りだった。口を挟む隙もない。でも話の途中からその言葉をさえぎる気持ちを失っていた。彼の言葉がどうでもよくなるほど、別のことに気を取られていたからだ。

 ちゃんと除霊してあげよう……?

 あぁ……、いる……。だけど、いままでとは違う……。

 赤黒いあいつの顔は際限なく広がっていき、あたしの影を、そしてあたしを呑み込んでいく。


第三話「二流には分からない、2012」まとめ読み版(終)