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合わぬなら合わぬままでもよいよいホトトギス

 最近、小説に直結する企画、コンテストがいくつかあったので参加しました。

 参加したもので言うと、

〈#リライト金曜トワイライト〉

〈#逆噴射小説大賞2020〉

〈第三回教養のエチュード賞〉

 後は、ノベルデイズといういくつかの作品を置かせてもらっている投稿サイトで行われていた、2000字の恋愛小説のコンテストにも一応こちらの作品で参加しています。

 あんまり最近は参加してなかったのですが、今月に入ると一気に三つも参加していたみたいです。

 ちなみに〈#逆噴射小説大賞2020〉は長編の冒頭800字のみを書くコンテストで、続きを書く予定は最初はあまりなかったのですが、現在、この中のひとつを長編化しようとプロットを練り練りしています。

 話は変わりますが、

 昔はよく書いていたけれど、最近は書かなくなったことと言えば、私はあまり自分の作品が好きじゃない(あるいは好きじゃなかった)。書けば書くほど自分の嫌な部分が見つかり、「あぁなんで書いてんだろう……」と落ち込むこともしばしば。どんなスタンスで書いてようが、より自分にとって良いものを、より面白いものを、というのは多くのひとが思っているのではないでしょうか。

 別に今だって特別優れているものが書けている、とは思っていない。優れているなんて言ってしまったら、かつて自分を楽しませてくれた、救ってくれた物語たちが色褪せてしまいそうな気がするからだ。それでもnoteで小説を書くようになってから、面白い、と言ってくれるひとができて、そして自分なりに前よりも自分の作品に対して「意外と悪くないじゃないか……」と好きになれている感覚を抱けるようになったことで、自然とそういう言葉は減っていったように思います(それに、こんな私の作品を「面白い」と言ってくれた、あるいはリアクションを付けてくれた、ひとのためにも過度な卑下もしたくはない)。

 誰かの目に触れる場所に置く以上、私の作品はつねに誰かの優劣の中を生きることになります。コンテストとかに出そうが出すまいがこの事実は変わらなくて、可視化されるかどうかの違いがあるだけだ、と私は思っています。でも誰かの優劣の俎上で一喜一憂することと、自身が自分の作品に価値を見出していく喜びは、必ずしも繋げなくてもよいと感じていて、だから私は誰の評価の俎上で切り捨てられようとも、これからも今自分のできる限りのものを書いてそこに価値を見出していくことは続けていきたい。……と、久し振りに企画やらコンテストに出て、ちょっとそんなことを考えてしまったサトウさんでした~。別に自身の作品を他者の評価に反映させてもいいし、反映させなくてもいいでしょう。その時その時で自分に都合の良い判断を下しながら、よりよい創作ライフを過ごしまっしょい。

 ちなみに大体の、誰かや何かの評価軸に合わせていけない私は、これからも自分勝手な作品を、だけど自分なりに今自分のできる限り最良のものを、目指していきたいなぁ、と。そこの想いの部分に現時点の未熟さの度合いは関係ないはずです。

 ふと座右の銘を思い付いたので(今、思い付いたものを、座右の銘と言ってもいいのか?)、これを自分の創作座右の銘にしたいと思います~。昔、こんな記事も書いていたし、ね。

 合わぬなら、合わぬままでよいよい、ホトトギス――。

「誰かに合わせには行かねーけど、とりあえず今の自分にとって最良のものを投げるから、そっちが合わせに来い」的なマインドって昔から憧れだったよなぁ~、と思い出しつつ、終わりにしようと思います。

 じゃあね。