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僕が見た怪物たち1997-2018 第四話「物語から消える時、2016」まとめ読み版(約12000字)


 ここ数年、睡魔の訪れが以前に比べて、とても早くなった。

 いまでは原稿に手を付けはじめる時にはすでにあくびが出ていて、ほとんど進まないまま眠りに落ち、気付けば翌朝を迎えていることも、めずらしくない。月の三割くらいはほぼ徹夜で、その執筆ペースに驚かれていた頃が懐かしい。焦りはあるのに、肉体は自分の思うように動いてはくれず、ただ時だけが淡々と過ぎ去っていく。時間さえあれば、なんていうのは言い訳だ。たぶんもうすこし時間があったところで、俺はこの物語を完結させられないだろう。

 こんこん、とドアをノックする音はいつもの妻らしくないすこし強めな音で、俺が背後を振り返りながら、

「どうした?」

 とドア越しに声を掛けると、失礼します、と妻のものではない男性の声が聞こえてきた。

 まだドア越しにある久し振りの顔が、見るよりも先に頭に浮かぶ。あぁ……、本当に、めずらしい客人だ。部屋に入ってきた、十年以上も古い付き合いのある友人の姿に、俺はすこしのあいだ、それまでの眠気を忘れてしまった。

「久し振りだね」

「すみません勝手に。奥様から、会っても問題ない、と聞いたので……」

「もちろん、きみならいつでも大歓迎だよ」

「でも執筆作業中だったんですね」彼が、俺の机の上を見ながら言う。「すみません。先生の邪魔をするつもりはなかったんです」

「誰からも、先生、と言われるのは気恥ずかしくて仕方ないが、きみから先生と言われると、特に違和感しか覚えないね。きみの先生は、あのひとだけ、だろ。きみに会うのは何年振りだろうか。何か用事があって来たんだろう、コウくん?」

「そうですね……。では以前のように志賀さんと呼ばせていただきます。えぇ、確かに話したいことはありました。ただ……、それもそうなんですが早めに会っておかないと、もう会えなくなる……、そんな気持ちもあって。……理由は僕にも、はっきりとは分からなくて、ただの嫌な予感と言いますか、虫の知らせ、みたいなものなんですけど……」

 さすが俺とは違って本当に、先生、と呼ばれるべき人間の助手だ。一緒にいるだけで、勘も鋭くなってくるのかもしれない。

「先生は元気にしてるのかい?」

「志賀さんが最後に会った時と、何も変わらないですよ」

「そうか……」

「それで、きょう来たのは、先生のことで、なんです」

「まぁ俺のところに、久し振りにきみが訪ねてくる理由なんて、それくらいしかないだろうからな」

「僕は、先生から離れたい、と思っています」

「……驚いた。きみと先生は一蓮托生だと思っていたが」

「僕もそうなると思っていましたが、すこしずつ先生のことが分からなく……いえ、最初から分かっていなかったんですが、特に最近、先生のいままでの行動や言動に違和感を覚えるようになってきたんです。……あの、志賀さんは先生の息子さんの顔を見たことがありますか?」

「ないよ。そもそも子どもがいることも知らなかったよ。でも、それがどうしたんだい?」

「――似てるんです」

「きみに?」

 彼は肯定も否定もせず、ほほ笑みだけを俺に向け、その表情は先生の表情によく似て、彼こそが本当の息子のようにさえ思えてくる。

「ここが解消しないと限り、僕は先生と一緒にいてはいけない。そんなふうに思うんです。それに……」

「それに?」

「先生への違和感がきっかけになったのは事実ですが、純粋に僕は僕だけの人生を歩んでみたい、って思うようになってきて……。たとえそれが、どんなに苦しいものであっても」

「きみが決めたことなら、俺は応援するよ」でも……。彼のその新たな姿を、俺が見ることはないだろう。とても残念ではあるけれど、仕方のない話だ。「……はじめてきみたちに会った時のことを覚えているかい?」

「えぇ、あんなに強烈な依頼を忘れることできないですよ。先生にとっても特別な依頼だったからこそ、僕たちは定期的に会うことになりましたし、ね」

「そのおかげで、きみという年齢が二十も離れた、俺にとっては唯一と言ってもいいくらいの友人を得たわけだから、あの一件も悪いことばかりじゃなかったのかな」

「奥様も、もう落ち着かれている感じでしたね」

「あぁ、とても嬉しいよ。……まぁ話を戻すが、長く一緒にいると、大なり小なり相手に何かを思うことはあるものさ。俺にとってはそれが妻になるし、きみにとってはそれが先生になる。考えて、きみなりの答えを見つけるといい」

「志賀さんにとって、奥様……光希さんは、どういう存在ですか?」

 志賀光希……妻は……、俺にとって妻は、彼女はどんな存在なのだろう。

「いまだによく分からない。不思議な存在だよ。いま恋愛小説を書いてるんだけどね。別に光希をモデルにしたわけじゃないのに、書いているうちに、自然と作中のヒロインが彼女に似ていくんだ。そういうのに気付くと、良いところも悪いところも、どこまでも俺の人生に根付いているんだな、と思ったりもする」

 すこしだけ雑談をしたのち、彼は帰っていった。帰る間際、彼は不安そうなまなざしで、俺に、また会えますか、と聞いてきて、俺もほほ笑みだけを返すことにした。

 自分の人生にはそれほど後悔もしていない。だってさほど期待もしていなかったから。

 心残りがあるとしたら、光希のことだ。

 俺はどうせ先の進まない原稿のデータを保存してパソコンの電源を落とし、一通の手紙を書くことにした。



【文芸雑誌「星白」2016年7月号「作家・志賀恵聖追悼特集」著者紹介文より】

 彼のデビュー作『虚構の中に舞う』の衝撃を、いまも忘れられずにいる。

 まずは筆者のことを知らない読者のために、簡単に自己紹介させてもらうと、筆者は志賀恵聖と同年デビューの売れない作家である。親密な交流があったかと言うと、ほとんどなく、そもそも彼は作家同士での交流に興味はなかったのではないだろうか。筆者に白羽の矢が立ったのは、同じ時期にデビューした、ただそれだけだ。

 彼の作品に初めて触れたのは、今からちょうど二十年前の夏だ。自分の最初の著書が書店に並ぶ。そのことにうきうきしながら書店の文芸新刊棚に行くと、そこには明らかに自分の著作よりも強烈に目を惹く小説が平積みになっていた。本に呼ばれる、という感覚がある。まさにあれがそんな感覚で、自分の初めての新刊よりもその本が気になり、購入して帰ったその日暮れの頃から翌日の明け方まで徹夜で読み耽り、感嘆の息を漏らすことしかできなかった。それが『虚構の中に舞う』だった。

 この作品は作者自身の生い立ちが語られることからはじまり、すべてが順風満帆にいっていた高校時代に比べて、大学時代の人間関係に、あるいは就職してからは職場の劣悪な環境に悩み苦しむ……、そんなどこにでもあるような自伝的な青春小説か、と思ってしまう前半なのだが、途中から明らかにおかしくなる。やがて作者と同名の語り手が自分を苦しめてきた周囲の人間を殺して回るスプラッター小説を書きはじめるのだが、そのうちに現実と虚構の区別が付かなくなって、現実でも殺人に手を染めてしまう、という感じで歪に展開し、それをどこまでも静謐な文体で綴って、それが強烈に残るのだ。殺害された登場人物には現実にモデルがいた、というのだから驚きだ。これを読んでいる志賀の愛読者なら知っている、と思うが、彼の著作の主要人物には大抵、モデルがいる。

 彼がこの作品を二十代前半で書き、いや二十代前半という若さだけが持ちうる恐れ知らずな輝きだったのかもしれない。それを知った筆者の心は嫉妬よりも絶望を感じた。こういう小説を本物と呼ぶのか、とそんな気持ちになったのを覚えている。

 この作品は、毀誉褒貶含めて、かなり話題になった。だから多くのひとが彼の次作を待ち望んでいたし、筆者もそのひとりだったのだが、デビューから二作目まで沈黙していた期間は思いのほか長く、二作目が出版されたのは『虚構の中に舞う』の毀誉褒貶を読者が忘れつつある頃だった。とても端正なミステリだったが、かつてあった毒や棘をすべて失ったような内容で、それがすこし残念だったのを覚えている。

 二作目以降の彼の作品は、そのほぼすべてが優れていて、商業的にも成功を収めた、と言っても問題ないはずだ。だが、筆者はあのデビュー作の頃の彼がいつか戻ってくると、ずっと待ち望んでいた。そう思っていたのは、筆者だけではないだろう。

 彼の死によって、それが永遠に叶わぬことが残念だ。



 先生ほどではないが、このひとも、昔と比べて外見があまり変わらない。

 志賀さんの葬儀から一ヶ月近くが経ち、奥さんである光希さんの顔を見るのも、それ以来だった。広い一軒家にひとりだと精神的な苦しみもさらに大きくなってしまうのかもしれない。もう以前のような一戸建てに夫婦で暮らすような生活ではなく、現在は別宅として借りたアパートにひとりで住んでいるそうだ。

「きょうも、ありがとうございます」

 消え入りそうなちいさな声で、光希さんが言った。きょうも、という言い方なのは、先生のほうはこまめに光希さんのもとを訪れていたからだ。僕も知ったのはつい最近のことなのだが、生前の志賀さんから頼まれていたそうだ。自分の死後の光希が心配で仕方ない、気に掛けてやってくれないか、と。新たな生活の環境を整えたのも先生のようで、確かに光希さんひとりだと、そういったところも気に掛ける必要があるかもしれない。

 どこかぼんやりとした子、ね。

 僕と先生が最初に光希さんと顔を合わせた時、先生がそう言って溜め息をついたのを覚えている。まるで小学生くらいの子どもに言うような口調だったが、実際の光希さんの年齢はそこまで先生と離れているわけではない。先生が言うように、僕から見ても、光希さんは、ぼんやりとして危なっかしい印象があった。

 妻の心に巣食う闇を払ってくれ、もし無理ならば、妻を殺してくれ。

 志賀さんから初めて依頼を受けた時の言葉が脳裏によみがえる。志賀さんにとっての光希さんは、光希さんにとっての志賀さんは、どんな存在だったのだろうか。ふとそんな考えが浮かぶ。

「どうしたの? そんなにおでこにしわを寄せて」

「あっ、いえ、ちょっと考え事をしていました。すみません……」

 先生のほうにしか意識が向いていないと思っていた光希さんの目が、気付けば僕に向いていて、慌てて言葉を返す。

「ごめんね。失礼な助手で」

「いえいえ、気にしなくて大丈夫ですよ」

 と、光希さんがほほ笑む。光希さんとは僕を介さずにいままで会っていたわけで、何故、先生はきょうに限って僕を誘ったのか、とそんな疑問はあったが、まぁぶつけたところで先生は答えてくれないだろう。ただ理由はどうあれ、ここに来るまでずっと不安だった。もしかしたら志賀さんが死んで以降、最初に会った頃の光希さんに逆戻りした状態になっているのではないか、と思っていたからだ。先生が何度も足を運んで、闇を払ったあの日々が繰り返されているのではないか、と。

 でも……、

「あの……、先生、いつも来てくれて本当に嬉しいです。でも私も子どもではないですから、一ヶ月もあれば、気持ちもさすがに落ち着いてきます。これ以上、ご迷惑もおかけできないので、お忙しいでしょうし、無理に来ていただかなくても……」

 やり取りをしている限り、光希さんの精神状態は安定しているように思えた。

「そうね……こうやって話していても、だいぶ元気になったのが分かるね。嬉しいよ」

 先生が光希さんの頬に手を当てながら、言った。

「これも全部、先生のおかげです」

「本人の意志がなければ、いくら私に能力があっても、どうにもならないことよ。そう言えば、彼の本は読んでる?」

 先生が目を向けたのは、積み上げられた七、八冊の書籍だった。すべてハードカバーで、作者名は、志賀恵聖、になっている。光希さんが志賀さんの本を読んでる、ということに僕は違和感を覚えた。

 妻は絶対に俺の作品は読まないし、俺も妻には絶対に読ませないんだ。確か以前、志賀さんがそんなことを言っていた覚えがあり、その理由を志賀さん本人に尋ねたことがあったからだ。

 違和感が表情に出ていたのだろう、光希さんがうすく笑みを浮かべた。

「あぁ、彼から聞いていたのね。私が彼の本を絶対に読まない、って。うん、そうね。彼が生きている間に、私が彼の本を読んだことは一度もない。彼は、自分の顔を知っているひとに自作が読まれるのをすごく嫌っていたのも知っているし、私も彼の隠れた思考を彼の作品を通して気付いてしまった時、いままでと同じように接することができるかどうか不安だったから。でも彼が死んでちょっとしてから、先生が薦めてくれてね」

「もう彼はいないんだから、気遣う必要はないでしょ?」

 先生の問い掛けは、光希さんではなく、僕に向けられていた。

 特別な用事なんてない。ただ会いに行ってすこししゃべるだけ。そう先生から聞かされていた通り、別に先生と光希さんとの会話に仕事を思わせる雰囲気はなく、金銭のやり取りがある様子もなかった。第一、もしお金が動くならば僕に何か一言あるはずだ。一応、僕はまだ助手であり、同居人だ。

 まぁもしかしたら生前の志賀さんからこっそりとお金を貰っていた、という可能性もあるが……、さすがにそれは考え過ぎだろうか。志賀さん夫妻と先生と、僕、この四人の関係は仕事がきっかけではあるが、仕事上の付き合いが終わっても関係が続いていて、僕たちの普段を考えれば、それはとてもめずらしい。先生にとっても、友人に会いに行く、というような気持ちがあったのではないだろうか。

 光希さんの住むアパートを出て、僕は車の中で先生を待っていた。車に乗る直前、忘れ物をした、と言って、光希さんの部屋に戻ってしまったのだ。意外と時間が掛かっているが、見つからないのだろうか。

「ごめん、ごめん」

 と、先生が助手席のドアを開けて、乗り込んでくる。

「光希さん、元気そうでしたね。志賀さんの心配が杞憂に終わって良かったです」

「そうかしら? 私には彼女の心の先に、漆黒の闇が見えたけれど」

「でも、昔のように憔悴しきった感じもなかったですし……」

「あなたもまだまだね。心の闇の濃度は外見だけで判断できるものではないのよ」

「すみません……」

「いまの彼女は、かつてのあなたに似ている」

「どういう意味ですか?」

「怪物、よ」

 先生はまだ、怪物に囚われているのだろうか。それとも僕が目の前にいるから、敢えてそう言っているのだろうか。



〈個人ブログ「現代の都市伝説を追え」――【或る作家の死】項より(前半)〉


 それは作家の呪いか。

 今回紹介する現代の都市伝説は、つい最近話題になったばかりなので、作家の実名も込みで多くのひとが知っている話だと思います。とはいえ、事態が収束してからまだ日が浅く、実際に死者も多く出ているような出来事なので、関係者に配慮して、名前はすべてイニシャルにしました。コメント欄などにも、実名等は書かないでください。

 最初に言っておきたいのが、筆者は今回の事件の関係者ではありません。知らない方のために添えておくと、筆者は某オカルト情報誌の元編集者で、いまは不可解な死を遂げた姉の死の真相を追う、ただの一般人でしかなく、事件当時に週刊誌で飛び交っていた情報以上に特別な知識は、一切持っていないです。

 そんな半端な知識で何故書こうと思ったか、と言えば、私とこの事件がどこか遠くで繋がっているような印象を抱いたからです。特にそれが何なのかは分からず、ただの予感に過ぎないのですが……。今回この出来事を扱った動機はこれに尽きます。

 ベストセラーになった著作もある作家のS氏の死が、事のはじまりでした。

 S氏の死については、不審な点はひとつもなく、膵臓癌だった、と言われています。ステージが進んでいても、あまり外見的な変化はすくなく周囲にはぎりぎりまで隠していて、奥様のМさんにもいずれ治る病気だ、と伝えていたそうです。余談ですが絶筆になったS氏の最後の著作は自伝的な要素も色濃い恋愛小説で、本人の口からそう明かされているわけではないものの、ヒロインのモデルは奥様のМさんだと解説されている評論家も多いです。

 愛妻家の一面もかいま見れて、すこし羨ましくもなりますね。

 ……と、話を戻します。

 このS氏のすべての著作にはちょっとした共通点があり、それは作中の登場人物のうちの最低ひとりは彼の周囲の誰かがモデルになっている、というものです。そんなの決してめずらしい話ではないのでは、と思う方もいるでしょう。確かに作家が見知った誰かを材にとることはよくある話なのかもしれませんが、それでも作品になる過程で大きく脚色が加えられたりするものです。私小説なら話は変わってくるかもしれませんが、特にS氏はどちらかと言えば、基本的にエンタメ系のひとでしたから。

 なのに……、

 S氏は知っているひとが読めば明らかに、あのひとだ、と分かるような登場人物を配し続けて、現代の出版業界において抗議の多い作家の代表格として有名だったそうです。仕事仲間としては関わるのに勇気が要りそうな作家ですね。それでも彼の作品が途絶えなかったのは、彼の作品の面白さ、応援する熱烈な愛読者の多さ……、それ以外にはないでしょう。

 その中でも、その要素を過剰に注ぎ込んだのが、彼のデビュー作だと言われていて、その作品の中にはそれ以降の作品を一切認めない、という向きもあるそうです。基本的にエンタメ系と前述しましたが、このデビュー作に関しては、エンタメ性はかなり稀薄です。

 S氏の死んだ、三ヶ月後でした。ビルの清掃員をしているS氏の兄が不可解な転落事故で命を落としたのです。事故死として結論付いたものの、その死には不審な点が多かった、と言われています。最初にこの事故を記事したのは、前に筆者が勤めていた出版社が刊行していた、すこし下世話なところがある某週刊誌だった、と記憶しています。

 恨み続けた作家の呪いか。

 みたいな見出しだったはずです。S氏の兄は有名なミステリの賞を受賞したS氏の七作目の著作に登場するタレントとして成功した主人公の兄のモデルとなった人物で、ギャンブル好きで借金を抱えていて、頻繁に小金をせびりに来る人物として描かれています。内容は倒叙形式のミステリで、このキャラクターは物語の中で主人公によって殺害されてしまいます。

 作品で兄を殺した作家の呪いは、現実にも浸食するのか。記事は、そんな内容でした。

 次が、その一ヶ月後、S氏の大学生時代の元恋人で、女優をしていた女性の死です。自宅で亡くなっている姿が発見され、心臓発作だと言われています。彼女をモデルとした登場人物が出てくるのは、S氏の最高傑作との呼び声も高いデビュー作で、この作品は現実と虚構の区別が付かなくなったS氏自身を思わせる主人公が、周囲の人間を殺して回る、という内容になっています。

 主人公の凶行の被害者として彼女は登場して、筆者はまだ実際にそのデビュー作を読めてはいないのですが、内容を調べる限り、主人公を手ひどく振ったことが原因で殺害されるそうです。ちなみにこの女優ですが、福井県に拠点を置いた新興宗教を騙った詐欺団体が破滅していく顛末を綴った【ある宗教団体の終局】の項とも関わりがあって、彼女はこの団体が制作していた勧誘ドラマの主演女優だったそうです。

 彼と関連する、このふたつの死は、たまたまでしょうか?

 もちろん偶然という可能性はありますが、ここまで近い間に死が立て続くと関連付けたくなるのも、人の性、と煽情的に書く彼らの気持ちも分からなくはありません。先述した雑誌も含めて、一部の週刊誌がこれでもか、と執拗にこの話題を取り上げ続けたのを覚えています。……ただ、それらの記事の内容の正しさについてここで語る気はありません。

 ただ、S氏の死から半年以内に、彼の著作のモデルであり、なおかつ作中で死を遂げている人物……このふたつに該当する人物が、六人も死んでいる、ということだけは確かです。



「あら、今日はひとりなの?」

 玄関のドアを開けた光希さんが、僕を見てほほ笑む。彼女の笑顔に恐怖を感じたのは、初めてだった。

「先生はきょう、仕事がありまして……」

 と、僕は嘘をつく。今回の話に先生が関わると、絶対に碌なことにならない気がして、僕は彼女のもとを一人で訪ねることにしたのだ。不審に思われたら、どうしよう、という不安もあったが、光希さんは気にしたふうもなかった。

「それできょうはどうしたの?」

 リビングに座り、僕の真正面には笑みを崩さない怪物の姿がある。

「いえ、実は気付くのがだいぶ遅くなってしまったんですが、僕の自宅の郵便受けに志賀さんからの手紙が届いてたんです。それを読むと、どうしても光希さんと話をしたくなってしまって」

 光希さんの前でも、僕は志賀さんのことを、志賀さん、と呼ぶ。なんとなく癖になっていて、その呼び方はずっと変わらない。

「彼から? ……どんな内容だったの?」

「俺はもうすぐ死ぬだろう。あの時は黙っていて、すまない、みたいな内容でした」

 僕はまた、嘘をつく。

「あの時?」

「ほら志賀さんが亡くなるすこし前に会いに行ったことがあったじゃないですか。あの時点で、志賀さんは自分の死期が近いことを知っていたみたいですね。それを僕に伝えなかったことを気に病んでいるような文面でした」

「あっ、あったね、そんなことも。ついこの間だけど、もう懐かしい、って思っちゃうなぁ」

「もう半年近くになりますからね。僕も短いような長いような、そんな気持ちです。……あの、光希さん」僕は覚悟を決める。「志賀さんの死に、気持ちの整理はつきましたか?」

「えぇ、前も言ったでしょ。大丈夫よ。いまの私はすごく落ち着いている」

「なんで、そんな嘘をつくんですか?」

「何を、言ってるの?」

 と、彼女はちいさく首を傾げる。その仕草には無邪気さがあった。

「だったら……、気持ちの整理がついた、というのなら、なんで殺したんですか? ……五人もひとを」

「殺した? 何を言ってるの?」

 ふふ、と彼女の笑う声に、僕は耳をふさぎたくなる。

「どんな事実を知ろうとも、警察にも、先生にも、誰にも言いません。ここで聞いたことは内密にします。だから本当のことを教えてくれませんか?」

「私はずっと本当のことしか話していない。だって私は誰も殺していないのだから……。別にきみが警察に何かを言うなんて思ってもない。あのひととずっと仕事を続けてきたきみの口の堅さは、信頼しているから」

「それでも真実は話してくれないんですね」

「きみの求める話が聞けないだけで、真実ではない、と決め付けるのは失礼よ。私が彼の死後、彼のためにしたことは、たったひとつだけ。彼を物語から救ってあげること、それだけよ」

「物語から救う……?」

 話が逸れていくことに不安を覚えながら、僕は彼女の語りに聞き入っていた。

「彼の書いた本を読みはじめてから、私はずっと考えていたの。なんで彼は、私に読んで欲しくなかったんだろう、って。恥ずかしいから、とか、そんなこと言っていたけど、あれが言葉通りのはずがない。全然違う。読んでいるうちに、私、すこしずつ私の知らない彼に気付いたの。なんで生きてる時に、こっそりとでも読んで、気付いてあげられなかったんだろう、って思ったくらい。作品の中に描いていたものこそ、彼にとっての現実で、それを読者が物語と勘違いしているだけなんだって」

「あれはフィクションだから、虚構ですよ」

「現実よ。ずっと彼を見てきた、私には分かる。あれは現実。彼は物語に苦しめられてきた長い時間を現実にぶつけるように、小説を描き続けていた。私にだけは気付かれると思っていたから、絶対に私には見せなかったの」

 もう一度、言い返そうとして、やめた。永遠に平行線をたどるような気がしたからだ。

「救う、というのは、どういうことですか? それが五人を殺した動機ですか?」

「だから……、何を言ってるの?」

 首を傾げる彼女は、本当に不思議で仕方ない、という表情をしている。あぁそうか、これは誤魔化しているわけではなく、本当に彼女は、逆、にしてしまったのだ。

「殺してはない、と」

「えぇもちろん。私は物語の中で彼を苦しめてきたひとたちを消してあげただけ。物語の登場人物を、殺す、という意味でなら、私は確かに殺したけれど、それって舞台から消す、ってことでしょ。現実のように罪になるわけじゃない」

 志賀さんが彼女に自作を読ませなかった本当の理由が、いまようやく分かった気がする。

 こんな未来を想像していたのだ。

 でも僕は彼女にそれを口にはしない。言ったところで、きっと彼女は理解してくれないだろう。

 僕は志賀さんから死後届いた手紙を、彼女の前に差し出す。それは僕ではなくて、彼女のために書かれたものだったからだ。

「すみません。さっきは嘘をつきました。これ、なんの間違いか分かりませんが、僕のところに届いたんです」

 僕は、三度目の嘘をつく。志賀さんは封筒の中に、彼女へとあてた手紙だけではなく、僕のみに向けられたメモもしっかりと残していた。

 そこには一言、

〈もし妻の心に闇が巣食っていたなら、彼女を殺してくれ。もし無理ならば、この手紙を彼女に渡してくれ〉

 と書かれていて、彼女への手紙の内容も僕はすでに読んでいる。その時にはまったく意味が分からなかったが、いまなら理解できる。

 僕は彼女がその手紙を読む前に、その場から去ることにした。

 志賀さんから光希さんへと向けられた手紙には、未完のまま出版された彼の最後の作品の続き、その構想が書かれている。物語は主人公の妻の自殺、という形で完結させる予定だった、と。彼女のことを知っているひとなら、誰でもあの作中の妻のモデルが光希さんだ、とすぐに分かるはずだ。

 志賀さんは、どこまでの未来を見通していたのだろうか。もしかしたら誰よりも彼自身が、この手紙が使われることのない未来を願っていたのかもしれない。

 もし彼が生きたままだったなら、この作品の結末はまったく変わっていた気がする。なんとなくだけど、そんなふうに思う。

 小説家の彼が、彼女についた最後の嘘だ。

 さよなら、光希さん。



〈個人ブログ「現代の都市伝説を追え」――【或る作家の死】項より(後半)〉


 最後に亡くなったのは、S氏の奥様であるМさんだった、と言われています。言われています、と曖昧な言い方になってしまったのは、多くの都市伝説や怪談話などと同様、この話の明確な終わりをどこに置くか、の判断が難しいからです。もしかしたらМさんの死以降も、私たちが知らない、気付いていないだけで、彼の作品のモデルとなり、現実で死を遂げた人間はいるかもしれません。ただ、すくなくとも週刊誌などで報じられたのは、Мさんの死まで、です。なので今回は、彼女の死とともに、この件は終着した、という前提をもとに記事を書いています。

 最後の被害者であるМさんの死因は自殺でした。

 お湯の張った浴槽の中、包丁で首を切ったそうです。遺書もなく自ら死を選んだその理由もはっきりとしない彼女に対して、被害者、の表現が適切かどうかは悩むところですが、彼女の死に呪いが関わっているのならば、ということで被害者と置くことにしました。ただ、もし仮に週刊誌が報じた内容に苦しんで死を選んだのだとしても、被害者に変わりはない、と言えるかもしれません。自分のことではないのに思わず殺意を覚えてしまうほどに、あの時はひどい記事が多かったですから。

 前述したように彼女は、絶筆となり死後出版されたS氏の最後の著作、そのヒロインのモデル、と言われています。

 彼の最後の作品、最後のモデル、その人物の死によってこの呪いが終わりを迎える、というのは、あまりにも出来過ぎた話に思えなくもないですが、もう事件からそれなりに経っていますし、敢えて不謹慎を承知で言わせてもらえば、半年の間に六人も、彼も含めれば、ひとりの人間の周囲で七人もの人間が亡くなる、という騒動自体がどこか物語めいていて、その結末が腑に落ちるように感じてしまうのも事実です。

 この出来事によって、過去にベストセラーもあるとはいえ、小説好きなら知っている、くらいの知名度だったS氏は、一躍時の人となり、生前では考えられないほど、多くのひとに名前を憶えられてしまったわけです。この事実には、個人的にすこし寂しさを覚えてしまいます。

 こんなふうな形で知られることに、件の作家は草葉の陰で素直に喜べるのだろうか、と。

 そして事が終われば、こんな大きな出来事であっても関係者以外は簡単に忘れてしまいます。かく言う筆者だって、こんな活動をしていなければ、いまも記憶に残っていたか怪しいものです。

 先日、ふと立ち寄った書店で彼の著作が一冊もないことに気付いて、そんなことを考えてしまいました。


第四話「物語から消える時、2016」まとめ読み版(終)