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小説がそこにあるのが当たり前じゃなかった頃

 私はかなり遅れてきた読者である。

「幼い頃から小説に親しんでいて」「そばに本のあることが当たり前だった」「両親の書斎にあった本を子どものうちに、親よりも読むようになっていた」と私と付き合いのあるひとは小説書きかレビュアーが多いので、自然とこんな文章を見掛けることが多い。その言葉を聞くと、ちりり、と古傷が疼くような痛みをかすかに胸に覚えてしまう。

 私は少年時代、ほとんど本の読まない子どもで、詳しい経緯はこちらの記事に書いたのですが、

 ある時期を境に、急に小説の魅力に溺れていったわけですが、「小説が好き」という言葉を使うのには強い抵抗がありました。小説を読む行為って、本来、他者と比べたり、競争したりするものではないはずなのに……、幼い頃から親しんできた方々と比較して圧倒的に数を読んでいない事実に、複雑な感情を抱いていたのかな、とも思います。それは「自分程度の人間が……」っていう遠慮もあったでしょうし、「あぁこの差って永遠に縮まらないんだろうな」という劣等感に近いものもあったはずです。

 だから私は20歳前後の頃、読破冊数目標みたいなものを決めて、とにかく数だけにこだわった時期があります。わざと勉強という意味合いを込めて読んだ作品も多いです。まず言っておきますが、私は今回、この過去の読み方について否定的に書くので、この行動を「良いじゃないか」と思うひとには薦められない記事になります。

 具体的な冊数は秘密にしますが、この頃の私はサークル活動も辞めていた時期で、大学の暇な時間はすべて読書に、休みの日は市立図書館に入り浸って、夜の睡眠時間も削って、本ばかり読んで、読んだ本と何冊目かの記録を付けるわけですよ。もちろんその中での素敵な出会いも多かったですし、その後の自身のオールタイムベストを挙げるなら絶対に入るような作品と出会ったのもこの頃ですが、

「私はそうはならない」と言うひともいるかもしれませんが、すくなくとも私にとっては、こういうのって、目標のための目標になっちゃうんですよね。つまり本来それを読んで、何を、どう感じたか、を一番大切にすべきはずなのに、数を稼ぐためだけに読んでいるような感じになっちゃうんですよ。たとえば大して好きでもない著名人の対談本を文字がすくない、という理由だけで読んだり、とか(それはそれで今となれば、得難い読書体験と思えなくもないですが……)。

 私がとにかく数を読みまくって気付いたことは、数を誇ることにあまり価値を見出すことはできない、ということでした。だからこの時、どれだけの冊数を読んでいたかは言いません。

 この思考に気付けた、という意味では、あの行動も大事な体験だったとは思いますし、これはあくまでも私の体験でしかないので、この方法が合うひともいるでしょう。「やりたい!」という方は応援します。

 私はかなり遅れてきた読者である。

 読者、という観点で考えると、恐ろしく遠回りをしてきた人間なんだと思います。でも、そこに抱いた複雑な感情、そして遅れてきた読者だったからこそ、気付けたことがあったのも事実です。

 誰かと比べて知識や数字を誇るよりも、

 内側にはどこまでも深く、外側にはどこまでも広く。文章ひとつでそれが成り立つ世界があることを知り、読めば読むほど、その世界は大きくなっていく――、

 私にとってはその世界を味わうことのほうが大事だ、と気付けたのも、こんな経験があったからなのかもしれません。そう考えれば、こんなスタートも悪くはないのかな、と。

 とはいえ今でもやっぱり、「幼い頃から小説がそこにあるのが当たり前だった」みたいな言葉を見ると、どきり、としてしまいますが、過去が変えられない以上、最後までスタートはそこのままだ。それは読者としても小説書きとしても。

 でもまぁそんなこと悔やむ必要はないかな、なんて思っている。

 読者として大事なのは、出会うこと。作品を愉しむこと。
 小説書きとして大事なのは、書きたい、と感じたものを言葉にしていくこと。

 たまに色々な考えが良くも悪くも入り込んできて悩んだりもするけど、私にとって一番大切なのは、こうであって欲しいから。

 だって本来、小説って、

 他者と比べたり、競争したりするものではないはず、

 でしょ。



 最後に私の読者としてのスタンスを書いた記事を貼って終わりにしたいと思います。

 ではでは~。