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波打ち際の記憶【短編小説(約5000字)】


 水平線の先の何もないはずの世界から流れてきたのは、かつての記憶だった。


 突然の大きな音に目を覚ますと、部屋に妻の姿はなかった。きっとまた新たな来訪者とやり取りを重ねているのだろう。相手への答えは、特別な理由がない限り決まっている。拒否された人物が入り口の扉の前で、怒鳴っているのだ。見なくても、彼女のそばにいかなくても、その光景は容易に想像できた。

 溜め息とともに、僕は気付けば時計の場所を探していた。長年の癖は、なかなか抜けないものだ。この施設内に時間の概念がないことを、起きた瞬間だけはいつも忘れてしまう。閉ざされた世界において時間の感覚はひとを狂わせるから、とそうみんなで決めたじゃないか。こういったひとが集まって暮らす施設を僕たちはドームと呼んでいるのだけれど、それはたまたまこの建物がドームの形を思わせるからそう呼んでいるだけで、他の施設のひとたちがどういうふうに呼んでいるかは知らない。

 いつまで経っても怒鳴り声は止まない。ドーム内にはそれぞれの居住者、居住家族のプライバシーを守るために、いくつもの仕切りが立てられていて、僕たち夫婦は入り口に一番近いところで暮らしている。だから誰よりも、こういう来訪者とのトラブルに眠りを妨げられる可能性が高いのだ。

「今回は、はじめてのひと?」

 僕が入り口に着いた頃に、ようやくドア越しの声がなくなった。

「うん。暑さにも耐えられないから、すこしだけでも過ごさせて欲しい、って」

「一日くらい駄目なのかな?」

「ひとつでも例外をつくっちゃうと、なんであのひとは良くて、このひとは、ってトラブルになっちゃうからね」

「まぁ、それもそうか。暑い、か。そろそろ、外は夏の時期なんだろうね、きっと。どこかが受け入れてくれるといいけど」

「まぁこれだけあれば、いつかは見つかるよ」

 妻はそう言うけれど、もちろんその可能性が限りなく低いことなんて、僕よりも妻のほうが分かっているはずだ。ドームへの受け入れを拒否するのは僕たち夫婦の役割で、こんな仕事やめよう、とたまに僕は彼女に相談している。こんな仕事を自らやりたがるひとなんて誰もいない。ただ妻は、ドーム内の居住者同士のトラブルが起こった時とかに追い出されそうになっても、こういう仕事をしていれば、みんなも私たちを雑には扱えなくなるから、とやめる気はなさそうだ。

 妻とはこのドームで出会い、結婚したのだけれど、彼女は僕がここに来る前からこの仕事をしていて、たぶん僕がこの役割を降りたとしても、彼女は続けるだろう。だからすこしでも彼女の負担を減らすためにも、僕はこれからも彼女と同様に、この仕事を続けていかなければならない、と考えている。他に特に重要度が高い役割、というと、定期的に命がけの外出をして食糧になりそうなものを調達してくるひとなんかもいる。

「交代はまだ当分あとでしょ。ほら、部屋で寝てきたら」

 妻にそう言われて、僕は部屋に戻り、毎日のようにベッド代わりに使っているブランケットを身体に包むけれど、一度眠りから醒めた脳は睡眠を嫌がっている感じで、さらに調子が悪いのか特製の空気清浄機から鳴る音がいつもよりうるさくて、なかなか眠れない。

 僕は眠ることは諦めて、架空の海へと遊びに行くことにした。

 外の景色が当たり前じゃなくなってしまったのは、いつのことだったか。もうあまりにも過去の記憶になってしまって思い出すことができない。もういまの外の世界は人間が住むには汚染され過ぎているし、不確かな伝聞ではあるのだけれど、世界のあちこちに点在するドームやあるいは地下世界に居住することを選んだ一部の人間以外はほぼ死に絶えてしまっているらしい。もういま外に出歩いて生きているのは、他のドームなんかを締め出されてしまって、まだそれほど日が経っていない者くらいだろう。わずかな富豪なんかは自宅に貯蔵してある食糧なんかで飢えをしのぎながら、引きこもって生活しているみたいだけど、ごく普通の生活しかしていなかった者が、外出をほぼせずに協力もし合わずに生き永らえるのは不可能に近い。

 長時間の外出など正気の沙汰ではないこんな世界になって気付くのは、かつての自然の恋しさだった。

 元は工科系の大学で教授をしていた、という同じドームで暮らしていた老人が死ぬ前に、良かったら、と僕にくれたのが、仮想空間を通して様々な自然を体験できる優れもので、いつも嫌な役回りのきみたちのすこしの楽しみにでもなれば、とプレゼントしてくれたのだ。詳しい理屈は分からないが、海外のネットワークを使うので問題なく利用できるのだとか。

 いまが夏の頃なら、ということで、僕は僕のアバターを使って、僕だけの海へと行くことにした。他に誰もいない仮想のプライベートビーチはかつてあったどんな海よりも美しく綺麗だ、と思う。そこにいるのは僕だけで、事前の設定によって僕の理想通りの海を表現できるのだから。ゴミはひとつもないし、変な輩もいない。太陽の光を浴びた白い砂を踏む感触は心地いいけれど、砂の粒が靴の中に入って気持ち悪い、ということもない。

 だけど僕の心は沈んでいる。何故、海なんて選べてしまえたのだろう、と自己嫌悪に陥ってしまった。

 帰ろう、と思った時、遠くに何かが見えて、それはこちらへと近付いてくるようだった。そんなはずはない。だって僕は特別な設定を何も加えてはいないし、海から何か漂着してくるものなんてあるはずがない。何かの見間違いか、バグみたいなものだ、と電源を消して終わらせてしまえばいいはずなのに、僕はその遠くに見える何か分からないそれから目が離せなくなってしまった。興味を惹かれた、というよりは、言いようのない恐怖と不安だった。

 ゆっくりとそれは近付いてきて、その正体が分かった時、僕は思わず息を呑んでいた。


 水平線の先の何もないはずの世界から流れてきたのは、かつての記憶だった。


 かつて、夏に賑わう海があった頃、僕には恋人がいた。結婚も視野に入れながら一緒に暮らしていた大切な相手だ。もし明日世界が終わるとしたら、このひとと一緒に終わりを迎えるだろう、と疑いもしていなかった。

 あの日までは。

 まだいまの妻の顔さえ知らなかった頃の話だ。彼女と同棲をはじめて一年目の、そうあの時も夏だった。酷暑が猛威を振るう夏に、彼女が、海に行きたい、と言って、僕たちは電車に乗って、彼女の地元でもある海沿いの町を目指した。

 楽しみだね、とそう言ってにこやかな表情を僕に向けていた彼女は、リン、という名前だった。

 その海は当然、いまの僕がアバターを通して見ているような、こんな美しい海ではなく、もっとゴミとひとでいっぱいの、だけどこれは現実だ、という実感をしっかりと抱ける景色をしていた。いまとはまるで違うような確かな現実が、そこにあったのだ。

 最初に謎の異変に気付いたのは、どの瞬間だっただろうか。

 倒れているひとがいる、と誰かの叫びを聞いた時だろうか。周りに胸に手を当てながら苦しんでいるひとが多くいて、僕も同様に息苦しさがあった。身体の強くない、特に呼吸器の弱かったひとは、その時点でもう駄目になっていたのかもしれない。それでもそのただよう瘴気のようなものは、長くひとが耐えられるものではない、と多くのひとが気付いていただろう。多くのひとが逃げるように走り回る姿を見ながら、僕もリンの手を取り、駅に向かって走ったのだが、駅のホームにも、倒れて、転げ回っているひとがたくさんの地獄絵図で、とても電車が通常通りの運行をできるような状況ではなかった。

 僕たちはまずリンの実家を目指した。

 それ以外、歩いて向かえる場所が思い付かなかったからだ。リンの実家はもうもぬけの殻で、そこには誰の姿もなかった。リンの両親はどうしているか分からず、どこかへ逃げていてくれればいいけれど、もしかしたらどこかで倒れたまま、死んでしまったのかもしれない。連絡が付かないので、確認する手立てはなかった。

 僕たちはできる限り、外の空気を吸い過ぎないようにしながら、リンの実家で過ごしたのだけれど、食糧はどんどん減っていき、不安を抱えながら近くのスーパーやコンビニへ行ってみても、商品はもうほとんど盗まれて無くなっていて、結局苦しい思いをするだけだった。

 そんな中でも助かる方法は必ずある、と信じながら、僕たちは色々な知り合いとコミュニケーションを取る方法を探したのだけれど、ひとの声を介さない機械的なニュースを通して、この状況が国内全域を脅かすものだ、とは知っていて、そんな状況下で簡単に連絡が取れる相手はすくなかった。

 施設で共同生活しているひとたちがいるらしい。それをリンが知って、僕に教えてくれたのは、どのくらいの時間が経ってからだろうか。すくなくとも一ヶ月は過ぎていて、空腹と精神的な恐怖で頭がおかしくなりそうだったのを覚えている。

 リンの実家、そして僕たちが遊びに行ったあの海の近くにもそんな施設があり、リンの古くからの親友もそこに住んでいるようだった。いつまでかは保証できないけれど、まだひとが暮らせるぶんの空きがある、と親友が誘いの言葉を掛けてくれた、とリンが言い、僕たちはそこに行くことにしたのだけれど、もし断られたらふたり揃って無駄に外に出るだけになるので、どちらかと言えば身体の強い僕が先に行って確認してから、問題なければ、彼女を呼ぶことにした。

 あと入れるのはひとりだけです。例外は一切、認められません。

 その声はあまりにも素っ気なく、冷たく感じた。それがいまの妻とのはじめての会話だった。ドア越しにそう言われた僕は悩んだ。僕ひとりだけでも施設に入れてもらおうか、リンを見捨てようか、とそんな想いがよぎらなかった、と言えば嘘になるけれど、だけど悩みに悩んで、そんなことはできない、と彼女のもとに戻ることにしたのだ。

 もう空きがひとつもないんだって……。

 僕は彼女にそう嘘をついた。

 一緒に死のうか、と僕が言うと、リンは迷う素振りもなく頷いた。彼女ももう限界だったのだろう。

 僕たちが向かったのは、まだ幸せだった頃の最後の景色でもある、あの海だ。

 真夜中の波打ち際から見上げた空には、星々が瞬いていて、僕たちは互いに無言だった。

 彼女が僕に手を伸ばして、その手は震えていた。死へと向かって僕はその手を握るつもりだった。嘘じゃない。僕は本当に彼女と一緒に死ぬつもりだった。嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない。

 だけど気付けば僕は、彼女の首を絞めていた。

 動かなくなったリンを見届けた僕は、ひとりドームへと向かった。

 僕は忘れたつもりなんてなかった。だけど罪の意識が薄らいでいるからこそ、仮想空間の遊び場に、海なんて選べるのだろう。


 水平線の先の何もない世界から流れてきたのは、かつての恋人の死体だった。


 触れようと手を伸ばすと、それが仮想の存在であることを告げるように、リンの死体は消えていき、背後から声が聞こえた。

「人殺し」

 とリンと瓜ふたつの姿をしたアバターが笑っている。この空間に来れるパスワードを知っているのは、妻だけだ。

「ドームにいるリンの親友って、きみのことだったのか」

「私とリンは幼馴染だった。あなたがいなければ、いまも生きていたはずの、大切なね」

「そうか……僕を恨んでいるわけだ。確かに僕はひとに恨まれて仕方のない人間だ。だけど、きみに、恨む資格はあるだろうか。きみだって、あの日、彼女を見捨てたことに変わりはない。僕たちふたりがドームに入ることをきみが認めていたなら、彼女は、僕の恋人は救われていたわけだからね」

 僕の精一杯の強がりは声になった時、ひどく震えていた。

「そう、だから私は恨んでいるんじゃないの。哀れんでいるの、あなたと、そして私自身を。大切だ、と思っていたひとを見捨ててでも、自分だけは生きたい、と願った私の心を、ね」

 だから私たちは永遠に許されない人殺しなのよ、と妻が僕の胸もとに顔を寄せて、

 そしてどこまでが現実だったのかを僕に教えてくれるかのように、仮想の妻が、仮想の世界が消えていく。

 気付くと僕はゴミだらけの現実の海にいた。目の前には、波打ち際で、海水に浸るリンの死体があり、遠くにドームの姿が見える。僕が実際には一度も入ったことのないドームだ。

 僕はドームの居住者として受け入れてもらえるだろうか、と立ち上がった時、

 世界が真っ暗になった。


(了)


 この作品は、別サイトの企画用に【浜辺の漂流物】をテーマに書いたものになります。