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小説書けん、と悩む男がひとり

 ということで、折に触れて書いている(完成までは投稿しないつもりでいる)長編小説はあまり進んでいません。何故、投稿しないか、というと、逃げ場を失いそうだからです。いやまぁ投稿しようと逃げる時は逃げるわけですが……。どんな話かというと、平成初期の新興住宅街が舞台で、その街に仕事の関係で一年ほど前から暮らしていた友人(兼同僚)が突然姿を消し、その失踪の直前に、友人から「俺はこの街が怖い……」という言葉を聞いていた主人公は、真相を追うために妹と結婚まで偽装し、かの新興住宅街に(本来の理由は友人の就いていた役職の穴埋め、として)住み始める。みたいな、まぁ多少ミステリ要素込みのホラーですね。一万字書きましたが、まだ一割書けてるか、という感じで、まぁ正直字数はいいのですよ。書く手を止めているのは、間違いなくこの作品面白いか、という不安なんでしょう……きっと。とはいえ今までだって、別に自分が優れているものを書いてきたと言うつもりはないですが、やっぱり長くなると時間が掛かる分、悩みも深くなるわけですよ。

 その合間にも何故かショートショートは書いていて、この五日間で四本くらい書いちゃってました。そんな愚痴やらショートショート書いてる暇あるなら、長編小説書けよ、っていう言葉はごもっとも(誰も言ってない)なのですが、同じ小説や文章を書いたりすることでも(あるいは読書も)やっていることは全然違うので息抜きになっていいでしょ……と思ってみたりもしたのですが、

 先ほど、ふと、
「あれっ、なんでこんなショートショート量産してたんだっけ?」⇒「あれっ、というか、なんで小説書いてんだっけ?」⇒「んっ……そう言えば、そもそも何故、自分は生きてるんだっけ?」……という、虚しい感情が連鎖していったので、本当に息抜きになっているのか、という――――、

 はっ( ゚Д゚) ……やばいやばい、あまりに愚痴が多いと相手を困らせてしまう。

 こんなタイトルですが、本題はこんな話ではありません。最初は、せっかく続けてショートショート四本書いたので、今日はネタバレ込みの作品解題でもしてみようかな、と思ったのですが、それはそれで恥ずかしい。ということで、もうちょっと作品に限定しない、小説を書く時に気を遣っていることを書こうかな、と。

 ちなみに最近投稿した四本のショートショートが、こちら↓

 一番人気なのは、「君のカレーをたべたい」みたいですが、個人的なお気に入りは、「未来、嘘、あるいはお金の話」です。

 ネタバレには配慮しますが、多少内容に触れていくので、もし良かったら読んでいただけると嬉しいです(という宣伝)。


 ショートショートの価値がすべて〈オチ〉で決まるとは思っていませんが、この四作品は描写や人物造形よりも、(作者的には)〈オチ〉にこだわった作品で、結末を重要視する場合は見切り発車で書き始めることはまずなく、導入と結末を決めて整合性が取れるか、ということを考えるようにしています。それはリアリティがあるか、ということではなく、驚かせるための驚きにならないようにしたい気持ちが強いからです。

 例えば上記の「逃げられない」の主人公である、〈フィクションで現実逃避する男〉が何故そういう性格になったのかが、主人公の怯えとともに明らかになっていく、という展開なのですが、その性格になった理由や怯えが、〈オチ〉に当たる部分と密接に繋がっていて欲しい、というわけです(ちなみに驚きのための驚きも読者としては、とても好きです)。そこが全然うまくいかなかった作品は、やっぱり心残りが大きい。

 結末を決めるとは書きましたが、軌道修正することも、もちろん多くて、特に「未来、嘘、あるいはお金の話」は事前に決めていた最後の一文を書いている途中に変更して、語り手に焦点を当てた部分を増やしました。

 これはショートショートに限った話ではない、文章に関する話ですが、結構気を遣っているのが、文章を見た時に受ける印象で、例えば「探偵になれない者の末路」に、

まるで探偵のようだ。と言っても例えばシャーロック・ホームズや金田一耕助みたいに難事件を論理的に解き明かすフィクション上の名探偵ではなく、現代日本に存在する現実的な探偵だ。

 という文章を作りましたが、〈シャーロック・ホームズや金田一耕助みたいに〉という部分は、〈シャーロック・ホームズや金田一耕助のように〉と文章を換えても内容は伝わりますが、その前に〈まるで探偵のようだ〉という言葉を使っているので、近い場所で〈よう〉という言葉を繰り返し使いたくはないな、という気持ちがありました。

 つまり、

まるで探偵のようだ。と言っても例えばシャーロック・ホームズや金田一耕助のように難事件を論理的に解き明かすフィクション上の名探偵ではなく、現代日本に存在する現実的な探偵だ。

 は、嫌なわけです(人がやっている分には別に構わないのですが)。違和感を感じる、に違和感を覚えるみたいなものかもしれません。何かに言い換えが可能なら変更して、あまりにも焦点がぼやけてしまう場合は諦めるのですが、その時は結構悔しい想いもしています。無意識にやってしまって後で気付いた場合にはこそこそ直しています。

 作品ひとつひとつの話をすれば、これはこういう意味で、とかはあったりしますが、私は生来大雑把な人間なので細かいマイルールとかはすくないのですが、こういったところは一応気を付けたりしています。

 ……文章の話と言えば、

 先日、とある「web小説で読まれるためには」という主旨の創作論を見る機会があったのですが、そこに「文章なんて読めればなんでもいいじゃん」(大意)ということが書かれていて、全体的にその方の文章を肯定的には読みませんでしたが、それもひとつの考え方ではあるのでしょう。でも読み終わった後、〈小説〉ってなんだろう……と思わず考えてしまいました。

 その考えでいくと、「歌は聞こえればなんでもよくて」「絵画は見えればなんでもいいんだろうか」……。

 文章の巧拙のみで小説の魅力が決まるとは思っていませんが(ストーリー、展開、人物造形、心理や情景の描写、たまたまその時の感情に合致したという場合だってあるかもしれません)、それでもどこまで行っても文章でできているのが小説です。論の方向性ははっきりしていて逆に清々しく思えなくもなかったのですが、堂々と「文章なんてどうでもいい」と唱える文章を読んで、面白い〈小説〉ってなんだろう、と久し振りに悩んだりもしてみました。

 誤解がないように言っておきますが、それは別にこの考えを受け入れようか悩んだ、という話ではありません。

 結局小説って明確な答えがなくて、よく分からないまま書いていくしかないのだろうなぁ、と考えてしまったのです。

 ちなみにその方の「駄目な可能性が高い小説」(大意)に、私の作品がことごとく当て嵌まったのは当然のことかもしれませんが、多少なりとも読んでくれる方がいてありがたい話です。たまに虚しさや愚痴に支配されそうになりますが、たまに立ち寄った時にでも覗いてもらえれば幸いです。

 最後まで愚痴っぽくなりましたが、文章に反して意外とのほほんと過ごしているサトウのだらだらとした雑記でした~。