ぼくたちは先の見えない航海を始めた。(#わたしの読むスタンス)

 一度だけ言葉を海にたとえたことがあるが、今でも自ら選んだこの大海の広さに呆然としてしまう。目的地の決まった豪華客船ではなく、いつ沈むか分からない小船でたったひとり、目的地も分からずに漕ぎ出したのだと知ったのは、周囲のどこを見回しても陸地が見えなくなってからのことだった。今でも、この言葉の海をおそれている。いやあの頃よりもずっといまのほうが抱える不安は大きい。

 砂浜に繋ぎ止められていた小船に足を踏み入れたあの日はまだ快晴の陽気しか知らぬ愚か者でしかなく、月のない夜の暗がりや波風によって起こる揺れの怖さも想像しようとしなかった。暢気に晴れ間だけが続くゆるやかな航海だけを頭に浮かべていた。目的地を定めず漕ぎ出しているわけだから、そもそも終着点なんて存在しないのかもしれない。

 それでも私は決して戻るという選択はせず、前へ前へと漕ぎ続ける。疑いようのない愚者である。それをひとつも後悔していないのだから、正真正銘の。


 先日、私はだいすーけさんの開いた、

「#わたしの執筆スタンス」という催しに参加させていただきました。一本の小説に〈設計図を必要以上に作らず、ゆるやかに結末を決める〉という想いを託して。それはもちろん間違いのない話で、エッセイの形を取らなかったのは私の生来の気質の問題です。

 今書いているエッセイは何も考えずに書き始めているから、小説とエッセイではまた違ってくるのかもしれない(これもひとつの執筆スタンスですね)。

 ただこのだいすーけさんの記事やあるいはここ数日でいくつか見た言葉がきっかけで私の「執筆スタンス」ではなく、「読み手のスタンス」としてひっそりと胸に忍ばせていたものがむくむくと頭をもたげてきました。

 私はどれだけ創作を重ねようと、自分のことをレビュアーだと思っている。いやレビュアーという言い方を気恥ずかしいといまだに思っているので、感想屋と自身のことを呼びたいと思っている。周りが私にどういうイメージを抱いているかは、周りが各々勝手に決めていくことなので、そこに私は一切関知しない。

 そして感想を主にしている人間にとって切り離せないのが、読解力理解力という言葉である。ここ数日でも何人かの「感想が難しい」という言葉を目にしたが、こういった言葉が読む上で、〈必要なもの〉として捉えられているのは間違いないだろう。これは昔から実感として抱いていたものなので、いまさら気付いたというものでもない。

 すくなくとも小説に関しては、

 私は読解力理解力という言葉にひどく懐疑的である。

 分からないけれど面白い、という感情を最初から捨てなければいけない、と思っているひとは一定数いるように感じる。一枚の絵に思わず涙が流れるように、歌詞の分からない外国の曲に思わず昂揚するように。ほとんどのことを理解できなくても心を動かされるものは多いはずなのに、それを小説というジャンルに適用しても、もちろんいいはずなのに、何故かそれを避けようとするひとが多いように、(すくなくとも私には)感じられる。

 分からなくても面白い。分からないからこそ好き。そんな観点があってもいいはずだし、その観点は他者から踏みにじられていいものでもないはずだ。

 ただ心のどこかで、こう思っている自分がいるのだ。一番この考えを踏みにじっていたのは、かつての自分だったのではないか、と。

 小説を読み始めた頃、私は分かることを何よりも重要視していた。分からなければ、面白くても面白い、と言ってはいけない、と生真面目に。分からなければ面白いなんて言ってはいけないし、感想なんてもっての他だ、と。特に好きなのに分からなかった本は何回も読んだ。でも分からなかった。でも色々読んでる内に、別の思考が浮かぶようになった。

〈作者〉と〈読者〉は違う。

 当たり前のことだ。そんな違う人間が、その人生で培ってきた知識、経験、技術……を注ぎ込んで紡がれた物語の大部分を理解できると思うことこそが読者の傲りなのではないか、と。だから私はできる限り理解しようとは努めるが、仮に理解の点でおぼつかない部分があっても、感想をおそれないようになった(ただ一点、消極的な評価を与える場合はかなり慎重になります)。

 恥ずかしながら、いくつか私のレビューを引くことにします。

神、科学、考古学、天文学。どうしてこの短篇集に収録される作品の終着駅はこんなにも美しいのだろう。天文学の話も考古学の話も理解としては追い付かない部分はありつつも、ゆっくりと丁寧に追っていけば(他の作品ももちろんそうですが……)この作品でしか出会えない感動にたどり着く。
正直に言います。私はここに収められた魅力的な作品たちの美点を明快に、そして十二分に語り尽くせるような読者ではありません。それでも私はこの作品を好きだと語りたいと思いました。〈愛〉という言葉を論じることができなくても、他者を〈愛する〉ことができるように。ただこの〈愛〉という曖昧な感情をあなたはどこまで信頼していますか、と問われたような気がした(後略)

 分からなくても感想を口に出していい。だってあなたは作者ではなく、読者なんですから、あなたなりの意見を言えばいい。そのぐらいの我儘は許される。ちなみに話がずれるのでここで細かくは書かないが、こういう考えがあるので、小説を書く人間としても、「お前には書けるのか!?」は言わないようにしているし、あまり好きではなく、どちらかと言えばかなり嫌いな言葉だ。

 小船(読書)に乗り始めた頃はこんなことを考えるなんて思ってもいなかった。すいすい理解できるようになって、さらに人生の糧になって、迷うことのない日々が待っていると思っていましたが、現実は逆です。

 読んでも読んでも分からないことばかりで、読み取れているのかどうかいつも不安ばかり、読めば読むほどよく分からなくなる怖い存在だし、別に人生の糧になるわけでもない。

「じゃあ読むの、やめればいいじゃん」って思うかもしれませんが、これがねー、楽しくて仕方ないんですよ。純粋に愉しむ読書って、最高に面白いんですよ。

 海の真ん中でひとりで漕ぎ続けるこの船はいつ沈没するか分かりません。もしかしたら運良くどこかの陸地にたどり着くかもしれませんが、それが良い結果かどうかも分かりません。

 でも私はこの航海を始めたことを何ひとつ後悔していません。だって楽しいし。

 それに……もう帰ろうにも、帰り方も分からないのですから……。もうこの危険な旅路を楽しまなきゃ、損でしょ。