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死へと続く音【短編小説(約4800字)】


 二十歳の時です。俺が初めてひとを殺したい、って思ったのは。いえ実際には殺していませんよ。殺したいと思うのと実際に殺すのはまったく違うことで、普通の人間はどれだけ願望を持ったとしても実行なんて到底できないんですよ。

 いままでも死んでしまえと呪詛のように、そんな気持ちを抱くことはありましたけど、殺してやりたい、と思ったのは、はじめてでした。あの頃は本当に心が荒んでいて、ほんのすこしの偶然の助けがなかったら、俺は殺人犯になっていたかもしれませんね。

 俺の憎しみが向かうその対象は、隣人でした。

 俺が借りていた学生マンションの、隣の部屋に住んでいた男です。同い年で通う大学も同じでしたが、学校で見掛けたことは一度もないですね。とても大きな学校でしたから。それに真面目に大学に通うタイプの学生にも見えませんでしたし。

 俺が住んでいたそのマンションなんですけどね、ちょっと名の知れたマンションで、まぁ悪い意味で、なんですけど、俺に紹介してくれた不動産屋のひとは根が誠実な性格なのか、別に黙っていてもいいのにこっそり教えてくれたんですよ。

 過去に何度か殺人や自殺が起こっている事故物件で、その地域にあるマンションやアパートの中でも、特に曰く付きとして結構知られた建物だったらしいんです。

 仮に幽霊の存在を信じていなくても、そんな場所にできるなら住まわせたくない、というのが大抵の大学生の親の本音でしょうが、でも多くの親にはもうひとつの本音がありますよね。たとえ本人に奨学金やアルバイトで一部を持ってもらうにしても、それでも家賃は安くすませたいものです。だから学生たちから人気だったんですよ、あのマンション。俺がいた時も長期間、空き部屋になっていること、ってなかったと思います。

 曰くなしのマンションと同じぐらいの広々とした部屋と同規模の場所に、半額近い値段で住めるんだから。

 でも、ね……、後悔しましたよ。こんな場所に住まなきゃよかった、ってね。

 最初の頃は良かったんですけどね。なんか……すこしずつ、違和感を覚えはじめてね。引っ越ししてから半年くらいたった頃ですかね。大学にも慣れてくる頃ですよ。サークルに入って、飲み会ばっかり開いているサークルで、学校にもほとんど行かずに毎日のように飲み歩いてました。知ってると思いますけど、うちのМ大学は偏差値が関西でも上位に来るような大学ですからね。そういうところで俺みたいに落ちこぼれになるような学生に多いタイプって、高校時代まで必死に勉強していて遊ぶことを封じてきた緊張感が大学入学の実感とひとり暮らしで思いっきり緩んじゃうんです。もうそうなったら駄目ですね。それでも高校までの貯金でいくらでも取り返しが付くって勘違いしちゃうんですけど、もちろんそんな貯金なんてたいしたもんでもなくて、気付けば取り返しも付かなくて置いてけぼりですよ。

 ……と、話が逸れましたね。

 ベッドで横になっていたら、突然、女の声が聞こえてきたり。……でも、そこには別に誰もいないんです。いや、いても怖いんですけどね。金縛りみたいになって身体がまったく動かなくなる、ってこともありましたし、別に地震が起きたわけでもないのに家具が突然揺れ出す、ってのもありましたね。物の位置が何故か変わってたり……、そんな話は挙げだしたらきりがないですね。

 自宅が一番リラックスできる場所であって欲しい、っていうのは、多くのひとに共通する感覚だと思うんですけどね。違いますか? ほら、むかし、ピアノの音がうるさいとか言って殺人に発展した、っていう事件もありましたが、神経がぴりぴりしている状態で隣がうるさい、って、そりゃ殺してやりたい、ってくらいの気持ちにだってなりますよ。もちろん実際には殺したりはしませんけどね、でももうすこしで、俺はあの事件の加害者と同様の事件を起こすところだったんですよね。

 あの女の声、ってなんだったんでしょうね。

 夢だと思いたいけれど、明らかに現実から囁いてくるような声なんですよね。ひどい、ひどいよ、って……。泣き声が俺の耳に届いてきて、俺しかいない俺の部屋に俺以外の誰かが一緒に住んでいるような、すごく嫌な感覚なんですよ。

 その声を聞くようになる直前に離れた彼女の声に似ているのが、やけに気に障るんですよね。気のせい。うん、気のせいですよね。ははは。

 ……と、隣人の話でしたね。隣に住む男なんですけど、いかにも不良してました、って感じの見た目で、何度かすれ違った時に挨拶したくらいですが、最初から好きにはなれなかったですね。こっちを見下してくるような態度が、どうもね。

 ただでさえ良い印象も抱いてないから、余計に、ね。

 恋人も友達もよく呼んでいるみたいで、いつも隣から騒がしい声が聞こえてくるんですよね。そりゃ俺だって友達だったり女の子だったりを呼ぶこともあるけど、……とはいえ、限度ってものがあるでしょ。

 騒ぎ声が聞こえてくると、こっちも怒りを溜めたくないから、友達のところに行ったり近所のネットカフェで時間を潰したりもしてたけど、さすがにそんなこと毎日はできないし……、で、俺が部屋にいる時に限って、いつもよりも特にうるさい音を立てるんですよ。もちろん偶然で、嫌がらせじゃない、ってのは冷静になったら分かるんですけど、音がしている瞬間のその音、って俺への攻撃にしか感じられないんですよね。

 部屋にいる時は耳栓もそうだし、あとは積極的にヘッドフォンを使って映画やドラマを大きめの音量で聞いたりしてたなぁ。その音の切れ目に隣のうるさい話し声が隙間を縫うように入ってきて、それって余計に腹が立つんですよね。

 なんで、あんなやつのために俺がこんなにも我慢しなきゃいけないんだろう、って。その声が楽しそうなほどに、俺の怒りは強まってくるんです。

 苦情ですか?

 何度も行こうと思いましたけど、相手は俺よりもずっと体格が良くて喧嘩慣れしてそうな、そんな感じだったんです。実際に喧嘩慣れしていたかどうかは知らないですが、それでもトラブルをできる限り避けたい、と思わせる雰囲気があったのは間違いないですね。

 ただこの騒音に嫌気が差していたのは俺だけじゃなくて、別の住人から大家さんに苦情が入ったみたいです。貼り紙で注意書きが書かれていました。だけど、改善されたか、というと何も変わりませんでしたね。

 そこに暮らしてから一年も経たないうちに、もう殺意が芽生えていましたよ。殺してやりたい、ってね。というかよくあんなに長い期間も、我慢した、って褒めて欲しいくらいですよ。

 最初に言いましたけど、ひとを殺してやりたい、って思うのははじめてでしたよ。死んでしまえ、って思うのと、殺してやりたい、って感じるの、って大きな差がありません? 死を願っているのは同じですけど、死んでしまえ、って受け身じゃないですか。自分の身を動かさず、言ってしまえばテレビの運勢ランキングなんかで一位を望むのと何も変わらない話です。そのための努力は何もしないぶん、その願いが叶わなくても、その落ち込みはすくない……、というか、そもそも叶わなくて当たり前だ、と思っている。そうなってくれたらラッキーみたいなものですよ。

 殺してやりたい、はもうすこし能動的というかね。殺す、と決意したわけではないけれど、もし機会があれば自ら行動することも厭わない、という感じがしませんか? もちろんこんなのはそれぞれが違う、微妙なニュアンスの違いくらいのものですが。

 いままで、あいつ死ねばいいのに、って思うことは何度もありました。

 大学に入ってすぐにできた彼女……、あぁさっき言ってた部屋で聞こえる声に似ているひとですよ。実はもう亡くなってしまったんですけどね。だから部屋で聞こえる声に繋げてしまうのかな、とも思うんですけど。すごく精神的に不安定なところがあって、突然暴れ出したり自殺未遂を起こしたり、って、もともとはそんな部分も含めて彼女のことを好きになったつもりなのに、一緒に死のう、みたいな心中を仄めかしたりしてきて、そういうのが続くうちに鬱陶しくなってきて、最低な話なんですけど、もういっそ死んでしまえばいいのに、なんて思ったこともありました。彼女に関して言えば、こんな気持ちを抱いたことに後悔しているんですけどね。

 だって彼女、本当に自殺しちゃったから。

 あの声、って幽霊とかじゃなくて、俺の罪の意識から聞こえる声なんですかね。罪悪感なんて、俺らしくない、って思わなくもないですけど……、あんなこと思わなければ良かった、ってね。別に結果は変わらなくても、俺の罪悪感の有無は変わったかな、とは思うんですよ。

 自分勝手ですかね? 人間なんてそんなもんですよ。

 あぁまた本題から逸れちゃいましたね。

 殺したい、って思っても、隣人の騒音は続きました。当然ですよね。残念ながら呪いでひとは殺せません。ちゃんと刺すなり撲るなりしないとひとは死なないんです。

 だから俺はね。計画を練りはじめたんです。殺害計画です。あんな隣人のために絶対に捕まりたくはないですよね。

 そもそもなんで引っ越ししなかった、って?

 なんで悪いことをしていない俺が逃げるみたいな真似しなきゃいけないんだ、ってのもありましたし、どうせこういうやつは他へ行っても迷惑掛けるんだから、いまのうちに殺してやろう、っていう変な正義感が出てきまして。

 ……で、実行一歩手前ですよ。

 隣のやつのほうが、引っ越ししちゃったんです。他からも苦情が出ていたから、居づらくなったのかな? 理由は分からないんですけど、いきなりね。

 運のいいやつですよ。まったく。

 唐突? そんな不満げな声出さないでくださいよ。俺にとっても唐突な出来事だったんですから。

 隣は空き部屋になったんですけど、でもね……、全然、快適にはならなかったんですよ。

 部屋の中で聞こえる彼女の声は変わらずでしたし、誰もいなくなったはずの壁の向こうからも声が聞こえるようになってきましてね。喚くような男の声ですよ。隣人の声に似ているけど、隣人はもういないはずですから。

 なんかね、うまくは言えないんですけど、俺は勘違いしていたんじゃないか、って思うようになってきて……。

 つまりは俺が隣からの騒音だと思っていたものは、隣人が出していた音じゃなくて、部屋と部屋の間……壁の中に何か秘密があるんじゃないか、ってね。

 ふざけてる? いや俺は真剣ですよ。

 それに、ね……、

 実際に壁に穴を開けてみたんです。中が見えるくらいに大きな穴ですよ。

 何があったと思います?

 真っ黒な球体の形をした何かがあったんです。それが、ね。緩やかに回転していたんです。それを見ていると、どうしても触れたい衝動に抗えなくなってきて、思わず手を伸ばしてしまったんですよ。どう考えても危険なものとしか思えないのに、ね。

 どうなったと思います?

 すごい力で引っ張られて、気付いたら俺ね、あれに呑み込まれちゃったんです。

 何だったんでしょうね、あれ?

 えっ、じゃあいまの俺は、って? さぁそんなの俺のほうが聞きたいですよ。なんで呑み込まれた俺は生きているんでしょうか?

 そんなに疑わしそうな目で見ないでくださいよ、先生。

 そんな穴、俺の部屋にはなかった、って? じゃあ、あれが穴もふさいじゃったんだ。

 正直に話せ、って?

 ずっと俺は本当のことしか言ってないですよ。最初に言ったでしょ、殺したいと思うのと実際に殺すのはまったく違うことで、普通の人間はどれだけ願望を持ったとしても実行なんてできないんですよ。殺人、ってね。

 ふふっ。あぁいえ、むかしから緊張すると笑っちゃうくせがあるんです。深い意味はないんで気にしないでください。俺みたいな普通を絵に描いたような人間に、そんな大それたことはできないんですよ。

 まぁ先生、頼みましたよ。あんた、俺の弁護士なんだから。ね。


(了)