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気になっていることを聞いた話と、その他のこと。

先日、思い切って、

・小説を書く時の、文章上の数字の扱い(漢数字なのか、アラビア数字なのか、それとも両方混ぜるのか?)を、みなさんはどうしているか?

・「掌編小説」「ショートショート」「短編小説」の字数の境界線は何字くらい?

 というふたつの質問をぶつけてみたわけですが、沢山の方から回答があって、とても嬉しかったです。もちろん創作には誤字や誤用があるように、間違いが〈存在しない〉とは言いませんが、それでも基本的に小説の世界は自由であり、自由であることが正しさに繋がるものだ、と私は思っています。

・段落の字下げを敢えて作らない
・真っ白なページを作る
・元の文章をバラバラにして新しい文章を作り直す
・読点のない小説
・袋とじが大量にある小説

 もちろん上記のこれらも〈正しく〉小説であり、〈小説〉を明確に定義できるひとは存在しない、と思えるほど、その世界は広い。小説はある意味、無法地帯と言えるのかもしれません。だからルールで自分を縛りすぎる必要はないし、その縛りは時に自身を限りなく苦しめるわけですが、

 とはいえ、

 色々なものを見て、色々なことを知り、そして自分のこれまでの作品を見直し、これからの作品を考える……というのも、創作の愉しさのひとつだ、とすくなくとも私は思います。考え、悩んでる時って、楽しいよね。

 だから実際に自分がどうするかは改めて自分なりに考えますが、考えるきっかけとして、色々なひとの作法や考え方を知るのはすごく嬉しい。楽しい。ありがたい。コメントやシェアで教えてくださった方ありがとうございます。

 ちなみに参考として伝えておくと、

「掌編・ショートショート」(noteでは同様の意味合いで使われる場合が多いので、便宜的にひと括りにしました)の字数に関しては、明確に決めているひとはすくない印象があり、まぁでも、やはり私が記事内で記した原稿用紙20枚はかなり長めのようで、ここには紙媒体とweb媒体による違いも大きそうです。

 数字の扱いに関しては、横書きの場合はアラビア数字、縦書きは漢数字を原則として決めている方が多く、ただ慣用句などの問題もあるので例外を作ったり、表現を変えたりなど、それぞれが苦心している部分でもあるのかもしれません。細かい部分かもしれませんが、細かいところを気にするのが小説書きなのです。そっちばっかり気にして、誰もが気付く大きなミスに気付かない、というのも小説書きなのです(←これは自分に向けて)

 と色々な答えをいただき、とても嬉しい話です。みなさん重ねてありがとうございますm(__)m


 ここからは余談ですが、

 noteに一年ちょっといると、読まれる文章の書き方やコツ、初心者へのアドバイス的な記事を目にする機会が(そんなに探すつもりもないのに)あります。私の目にした内容にたまたまそういうものが多かっただけなのかもしれませんが、アクセス数やリアクション数を上げるための文章作法や投稿を続ける上での心得などを見掛けることが多く(もちろんそうじゃないものとも出会っています)、それも確かに(ひとによっては)嬉しいものだと思うので、否定する気はひとつもありません。ただ……。

 ※でも最近はあまり見ていない気もするので、私が思っているほど無いのかも……。

 こちらの文章を読んだことがありますか? 決して私はこの文章の信奉者ではありませんが、良かったら、一度目を通してみてください。

 noteが掲げる、〈創作活動でもっとも大事なこと〉が書かれています。

 そこに、

・創作を楽しみ続けること
・ずっと発表し続けること
上の2つは、ページビューを増やすことよりも、お金を稼ぐことよりも、あるいはフォロワーを集めることよりも、何よりも大事なことです。

 と記されていますね。(もちろん多種多様な考え方があるので一概には言えませんが)外に向けて作品を放つ以上、評価や承認欲求と無縁でいるのは難しい。他者の評価に背中が押され、創作の原動力に、というひとも多いと思います。

 でもそんな中でnoteは、評価や数字を増やすより大事な〈創作を楽しみ続けること〉があると説く。でもその答えは教えてくれない。

 私も、ある、と思う。相手が教えてくれないから、自分は自分で考えることにした。

 本質的に創作は楽しい、とあるお二方に教えてもらってから、すごく大切にしている言葉なのですが、これに今日はすこし言葉を重ねてみたいと思います。昨日よりもすこし上達できた自分に嬉しくなるような感覚なのかもしれません。私はもともと嫌いだった自分の作品が好きになっていったように、もともと自分の作品が好きなひとは、さらに好きになって、もっと書きたくなる。書いてみたくなる。続けてみたくなる。評価を弾いた先にある、創作の愉しさ、って、そんなものなのでは、と私なんかは思ってしまいます。

 自分なりの創作をしたい、想いを伝えたい……そんな気持ちで、勇気を振り絞って最初の一歩を踏み出そうとしているひとが読む言葉に、〈悪ふざけ〉、〈ラクガキ〉という単語が置かれているのは、それがどういう理由であったとしても、やはりすこし悲しいという想いもあり、内容に全面的な首肯はしませんが、

 それでも、評価を挟まない〈創作を楽しみ続ける〉という軸は間違いなくある、と私も信じたい。

 ここからは敢えて鉄棒を例えに使うことにして(何故?)

 実際にnoteで濫立している(ように私には見える)記事が、鉄棒でより綺麗に回るためのコツではなく、着地した後に脚光を浴びるコツやそうなった時の心構えのほうが(私個人としては)多い気がしてしまい、でも自分としては前者のほうが大事で、各々がどう考えているのかを知りたいので、今後とも〈創作を楽しみ続ける〉上で色々聞いていきたいし、もし同じような気持ちを持っている方で何か聞きたいことのあるひとがいたら積極的に答えたいな~、と思う今日この頃。

 その質問が「今さら聞きづらいな~」とあなたが思っているような、そんな創作上のあれやこれやだったら、なお嬉しいな~、とも思う今日この頃。

 ……と質問へのお礼と長々とした余談でした~。

 ちなみに頭を悩ませるのも、創作の愉しみのひとつ、ということで、

 最近twitter上で、こんなことしているのですが、

 noteのつぶやき機能などで使っても全然OKですし、もしも書くこと思い付かないな~、とか、今日は寝れないな~、とかありましたら、試しにやってみてはいかがでしょうか?

 恋の終わりではなく、失恋の終わり。それは失恋中の最後の場面でも、失意からの再生でも構いません…あなたの思ったままに。

 だって創作は自由なのですから。