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SNSから離れてみる:全ての要素において100点を求められているような圧力から解放されよう



■ 疲れる、まぁ疲れる、まじで疲れる


うーーん。やっぱりなんか疲れるんだよなぁ。

なんで疲れるんだろう?どうしてこんなにSNSが苦手になってしまったんだろうか?

「じゃあやるなよ」なんですよね。そうなんです。そうなんですが、止めるほどではなく、今は、私は遠くに眺めているです。で、なんでこんなにFacebookを眺めていると疲れるのか?それを自分なりに言語化してみようと思ったのです。

ちょっと遠慮がちにいろんなところで呟いていたのですが、日本におけるFacebookについてを真面目に考えてみたのです。

疲れている誰かが、これをみて一人でも安心できるかもなぁと思って。余計なお世話か。

■ 条件というか、環境というか、前提というか。


・日本におけるFacebook
・40代、50代、それ以上について
・私のソーシャルグラフの周りの事象である

という特殊性を踏まえてです。

でも、30代も、ひょっとしたら使っている20代もかも?とか。これは、英語圏でもスペイン語圏でもそうなのかも?とか。

まぁ、周りのゆるい繋がりの人たちが私のつながりとは全く違う場合はその
限りではない。

■ Facebookをざっと眺めると・・・・


・何かの近況報告(転職しました、引っ越しました)
・何かのお願い(シェアしてね、いいねしてね、参加してね、買ってね)
・何かのお誘い(入ってよ、イベントきてよ、募集するよ)
・純粋な告知(こんなんやります、やってます、しってください)
・近況報告(私は元気です、復活しました、淡々と元気です)

これが、仕事、趣味、プライベート、家族、親族、友人、学校、サークル、職場、新しい家族、等々、さまざまな切り口で、あらゆる属性の人が、あらゆる場面で、あらゆるタイミングに、表現を変えて、発信されてきます。

いや、一人一人は、そりゃ悪気も悪意もないんすよ。善意なんですよ。良かれと思って、なんですよ。近い人たちに知ってほしいという純粋な気持ちなんすよ。そりゃわかってます。わかってますって。

だから、それが余計に辛い。そして、その蓄積の、堆積の無数の打鍵の中の一つに、私のポストももちろん入っているのです。

意識してか無意識か、エゴなのか無心なのかなど一切お構いなしに、巨大なこの「いいね」製造マシンは、2のn乗となる価値をじゃんじゃんと構築するためのソーシャルリンクのために、せっせとポストが重なるわけです。

■ 人間は凸凹な存在だよね。


元々、完璧な人間なんていない。凸があれば凹もあるのが人です。強みがあって弱みがある。出来ることがあって、出来ないことがある。人によってそれはさまざまで。それが愛嬌であり、味でもあり。

でもこのSNSを見ていると、ほんのすこーーーーしだけ「この状態まで背伸びしたら?」って言われているような圧を感じるんですよね。

一つ一つは、小さな圧なんです。でも、それはまるでそうしろと迫る小さな針。そしてそれが何重にも集まる。その集合体であるように見えてしまう。集まると剣山だよね。

先に言っておくと、多分、今の生活とか環境とか仕事とかその他諸々とか、かなり満足している。いや、満足しているからこそかもしれない。

現場に満足してない場合は、そこにそのギャップを埋めようという欲があるってことなのかな。発信をみて、発奮したり、モチベーションになったりするのかもしれない。

■ 疲れたり、痛い人は、辞めなくていいから、離れてみよう


実際、私は、止めると決めるほどの大きなアクションではなく、ただただ、距離を置いて、離れている。久しぶりに見るくらいなら胃もたれで済む。

たまーに食べる、ジャンクで大衆な串カツ食うようなもんだ。胃もたれはするけど、人生終わるわけじゃないし、体をぶっ壊すような状況までいかない。たまに、ならね。

Facebookで語ったが、人によっては、InstagramもTwitterも同じようなことを感じるのかもしれない。

疲れたら、ゼロイチではなく、緩やかに遠ざけるという選択で距離をとってみて。

みなさんはどう思いますかね?


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