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「小説とは人間に対する圧倒的な肯定なのだ」というフレーズについて。

千葉雅也さんの書いた小説に関するツイートが伸びました。最初に言っておきます。(普段そういうの興味ねえよという面をしていますが、それ故に)正直嬉しかったです。面白いと思った書物に関するつぶやきが広がっていくのはとても嬉しいです。

で、ツイートの内容なのですがこれは完全に芥川賞の選評に対するコメントです。選考委員のひとりが千葉さんの小説『デッドライン』について「カミングアウトものの小説だ」的なコメントをしてプチ炎上中っぽいです。その方のことをよく知らないし賞についてもちゃんと知ってるわけではないので、これ以上深入りはしません。

ただ、ツイートにもあげた保坂さんの言葉が素晴らしいのと、千葉雅也さんの『デッドライン』がとても清々しい小説であったことは伝えておきたいです。千葉さんの小説については「ぜひよんでくれ!」以上なにを声掛けしようもないのですが。

が、ちょっとだけ述べます。

あ、その前に訂正。ツイートでは「小説とは人生に対する圧倒的な肯定なのだ」とありますが、帰宅して見返したところ「小説とは人間に対する圧倒的な肯定なのだ」でした。これはミスです。

で、少しだけ述べます。この小説はカミングアウトとは異次元です。(千葉雅也さんがRTしてくれてるのを肯定的に捉えた上で、ですが)この小説に書かれている事柄が「人間に対する圧倒的な肯定」だとしましょう。では「圧倒的な肯定」とはなにか。それはおそらく「肯定否定など問わない」ということだと思います。そこにあることを完全に肯定されたものに関して、ひとは肯定否定を問いません。今だったらなんだろう。多くの人に伝わるように言うなら、例えば人権かな。人権があることを声高に主張しても誰も食いつかないでしょう。理解の差はあれ人権はもうそこに(ほぼ)何の疑念も持たれることなく存在している。要は、ふつーにある。ふつーにあるものに食いつく人はいません。『デッドライン』の中では主人公が生活している様が描かれます。哲学徒として思索をする様、友人と触れ合う様、性行為にふける様が描かれています。その有り様についての(そのひとの根源的な生き方、あり方に茶々を入れるような)外圧的な疑問は呈されていません。カミングアウトはまさにその外圧の中で生まれるもののはずです。そういうものとは無関係なのです。その姿勢自体がこれをカミングアウトと捉えるような姿勢との(一見無言な)闘争なのです。そんなものを越えて存在するもののあり方を示している。息づかいが聞こえる。そういう小説なのです。

いいたかったのはそれだけです。今回のことで千葉雅也さんの哲学の本も読みたくなりました。もう手元にあるので、読んでみます。思い出せばわたしもいつかは哲学徒でした。当時を思い出して、でも馴染みのないフランス哲学だけれど、でも楽しんで読みたい。小説中に『ウィトゲンシュタイン全集』を売るか売らないか、みたいな描写がありました。わたしが学生時代読んでいたのはウィトゲンシュタインです。ああ懐かしく朗らかで暖かくて清々しい!そんな気分です。

以上です。カンパイ。

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