悲しみのかけらがおちてくる夕方に。
誰かが残した悲しみが、不意に胸におちてくる時がある。
全く関係のない人にも響く悲しみの深さに、すっと頭を下げて夕暮れ。
どうもこんばんは、りょーさけです。
宴もたけなわ、GW。
みなさんなんかし過ぎて疲れてませんか?
休日の中にも休日は必要です。ええ。
だから僕も思いっきり短めの記事を書いちゃったりするわけです。眠い!寝よう!
今日は子どもと戯れてる最中に思い出した詩の一節について超ショートで。
それでは、始めます。
※※※
愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。
中原中也作、「春日狂想」、『在りし日の歌』から一節抜粋
なんて悲しい歌だろう、と初めて聞いたのは大学3年くらいの頃です。中島義道さんという哲学者の本に出てきました。
それから先何度か中原中也に没頭した時期があったのですが、毎回この「春日狂想」で手が止まります。
今日ほど深くそれを感じたのは、これまた初めてのことでした。
息子の丸い頬。草をちぎる手。遠くを見るつぶらな瞳。潤んだ瞳の奥。つぶやく言葉ならぬ言葉。
一回きりの自分の人生の中に流れる、彼という存在。これがなくなってしまったら?もう二度と見られなくなってしまったら?
そういうふうに考えてしまうと、大学の時なんかもう比べ物にならないくらい胸に迫るものがある。
不慮の事故があったら?
急に僕か彼の心臓がつむじを曲げたら?
どうなるのだろう。ほんとうに。
猟奇的な殺人者が現れたら?
暴走車両が突っ込んできたら?
いや、そんな突飛な例を持ち出すことがなくとも僕も彼も順は分からないけれど、死ぬ。とにかく死ぬ。
中原中也は幼いわが子を亡くしてしまったから、その悲しみたるやさらに想像の及ぶところではありません。
しかし、夭逝という大変な不運がなかったとしてもいつか死ぬ。僕も、彼も。あなたも、あなたの大切な人も。
同時に死ねたからといってそれがよいわけではない。
でも、片方が残ってしまったら…その時は一体どうなるか。
息子の寝顔をよく見たい夜です。
一度しかないものです。今日の彼。
今日の彼、永遠なれ。
※※※
それでは、また。