文学は無価値

2019年2月、大学受験をした。

早稲田だの明治だの青学だのと、世間である程度認められていそうな(諸説あり)生意気な大学の、これまた世間で価値ありそうな、経済学部的な学部を何個か受けた。

有名な大学以外に行く価値はほとんどないと思っていたし、文学部に行って文学や哲学をするような奴は気ぃ狂ってる(麻雀軍師)と思っていた。

大学を就職するための予備校かのようにとらえていたし、卒業後も当然、世間で認められている職に就きたかったんだろうし、俺にとってそれはビジネスマン的なフワフワしたものだったから、文学なんて非生産的なことをしても何の役にも立たないと考えてたからだ。まさに商業主義の奴隷である。

なんか違うなあとすこし思ってはいたが、その違和感を言語化するほど真剣に考えていなかったし、その違和感は社会的価値の前ではあまりに無力だった。


それから数年たって、当時の俺の願いを果たし、肩書はしっかりとフワフワしたビジネスマン的なものになったが、一方で今の俺を受験生の俺が見たら、間違いなく「なんでビジネスしねえのよ、気ぃ狂うわ~(麻雀軍師)」と言うであろう。
今の俺は、社会で生きていくうえでおおよそ役に立たないような本を読んだり、非生産的なことばかり考えて、金儲けへの興味が全然ない。 

ここから先は、このコペルニクス的転回を実現させた、俺なりの文学や哲学(以下文学でまとめます)への考え方であり、感じていた違和感への言語化であり、「文学なんてなんの役にも立たない」という言説に対する反論だ。

文学は、目の前の暮らしに調和しないから、一見価値がないように見える。
本を読んでも文章を書いても哲学をしても、大抵は金を得ることと直結していないばかりか、明日から仕事がうまく行くわけでもないし、むかつく奴は相変わらずむかつくし、腹の足しにならない。

それは文学が、今当然のように回っている社会やこの世界で、回すためにあっても「仕方ない」とされている人間の苦しみや貧しさを否定して、より良い世界を肯定する、未来志向の営みだからだ。

だから逆に、「文学が役に立たない」という言説は、すなわち現状の世界の肯定で、良いことも悪いことも、すべてを受け入れて認める態度であろう。

過去の俺は、当たり前の現実をうまく生きていくことに必死で、その現実を変えることなんて考えたこともなくて、しかもそれなりにうまく生きていくことができていたから、そんな態度を示していたし、おそらく、「文学が役に立たない」と考えている人の多くがそうだろう。

当然うまく生きていくことも大切だとは思うが、社会もそこにある価値観も、人間がそのときの人間のために作り出した虚構であって、常に人間のために良い部分は残し、悪い部分は作り変えていかなくてはならない。

だから、社会の価値観から自由になり、それをアップデートしていくことに有用な文学は、人間にとって絶対的に価値があるのである。

「文学に価値がない」という言説が流布している現状は、偶然産まれた社会でうまく生き抜くことばかりに価値を置いている現代社会の問題で、AIに社会が乗っ取られるという未来よりも、社会が人間性を乗っ取っている現状のほうが恐ろしい。

社会の破壊と創造・脳汁をテーマに、気ぃ狂いながら今年も生きていこうとおもいます。

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