見出し画像

他人(ヒト)の痛みとか事情を分かってる振りをする自分に嫌気の刺す夜が、たまにある。

自分のことさえ何も分かっていない人間が無駄に上辺の共感力を高めていったところで、詰まるところ、自分が全能感に浸るための防具を着々と強化してるだけなんじゃないか、と思ったりする時が四半期に一度くらいある。

初夏の夜は物理的な疲れを感じることも多いし、そんな時は自分自身が割と弱々しいことに気が付けるから、頭では理解したつもりの「構造」という幻想があまりに虚構すぎることを強く自覚するんだと思う。

嫌われ者のあの人にも思い描いた素晴らしい人生があって、ただ愚直に、道から逸れないように進んできただけなんだ。なんてその人を気遣ったフリをして、空ばっかり見てフラフラ歩いている自分のことは棚に上げるような毎日だしな。

悲しいコトがあった人の話を聞いて自分も悲しくなってしまえば、「寄り添った」という無意識の慈善活動意識が、優越感を刺激することすらある。

人が、生産性とか、効率とか、法律とか、システムとかの中で生きている訳じゃないことくらい、26年間の人生でそろそろ分かり始めても良い頃な気がするんだけど、てかもう26か。

自分自身が妄信的な自己効力感は強い割に、自己肯定感が案外低いことに気が付いたのはごく最近で、それがニアイコール他人への厳しさでもある。回りくどいなふざけんなって感じだな。つまり、自分の弱いところを認められないから、他人の弱さも許せない、と。

本当は許せていないのに、上辺の共感力の向上が作り出した最低の結論が、「あなたにはあなたの考えがあるよね」という言葉に隠された、自己完結型優越感製造心理。みにくっ。

誤解がないように言っておかなくちゃ。「違いを認める」のはとても素晴らしいことだと思う。でも、「認める」、は構造を理解しただけで、「尊重」からはほど遠い。

自己満足の為の、見かけだけの他者理解は本当に必要なの?

そんなことを考えてたら、「構造を知っただけの浅い理解」よりも、「構造の上にでも成り立っていた1対1の本質的な他者尊重」の方がずっと人間らしいんじゃないだろうか、

なんていう恐ろしい結論にたどり着きそうなので、今日はこのあたりで寝ておこう。

受け売りの言葉で為になるアドバイスをしてくれなくていいから、僕が帰るまで横にいてくれればそれが何より優しいな。

おわり.

.

何だか小難しいことを書いてしまったので、図解してみる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?