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スパイクの手入れと人間の使命

今度の日曜日に今シーズンの開幕戦がある。その試合への調整として、昨日友人とボールを蹴っていた。そして、さっき昨日使ったスパイクの手入れをしていた。ふと、「自分は、スパイクを手入れするためにサッカーをしているのかもしれない」「スパイクに手入れさしてもらっているのか」という謎の想いに駆られた。手入れをしていると、使用後に少し黒ずんでお疲れ気味の皮が、だんだんと息を吹き返し、元気になってくるのが目に見えてわかるし、手で触った感触もイキイキしているのがわかる。「ああ、皮も生きてる」という当たり前なのに、当たり前のように忘れていた事実に改めて気づく。

スパイクに限らず、一般に”物”というのは消耗品である。使い続けるうちにそれは少しづつ消耗していき、ある時がきたらそれは壊れてしまい、その物としての役目を終える。

物として”使えるかどうか”=物の価値と置き換えるのが現代資本主義社会の鉄則で、それは減価償却という概念に現れている。
減価償却という考えは、物は新しい状態から経年劣化していくのに比例して、その物の価値も下がっていくというものだ。

でも、僕のスパイクは違う。たしかに時が経つごとに、使用するたびにスパイクは摩耗していき、だんだんとへたってくる。いずれは、どこかしらの部分が壊れてしまい使えなくなってしまうのは、物である以上避けられない運命である。
ただ、手入れして思うのは、使えば使うほど、僕のスパイクは輝きを増し、能力を発揮するということだ。僕の中ではいまやサッカーをすることとスパイクを手入れすることは同義になった。それが冒頭に書いたように、「手入するためにサッカーをしているのかもしれない」という感覚の正体なのだと思う。ではなぜ、それが自分にとって大切だと思うのか?それは、サッカーにおけるスパイクという物に留まらず、自分にとってのあらゆる物、人生における自分という存在にまで影響を及ぼしてくれたからだ。自分の身の回りの物に対して、手入れをすればするほど、使えば使うほど幸せになる物はあるか?という問いを改めて考えさせてくれる。「どうせ消耗品だから」と何の気になしに置いているものはないか?と自分を見つめなおす機会をもたらしてくれた。使えば使うほど味が出てくるという考え方を地で実践していたのは、古来からの日本の伝統的な生活様式だったように思う。木材や竹材というのはその典型で、見た目はぼろっちいかもしれないが、使用と丁寧な手入れを繰り返すことで、より機能的に美しくなっていくものだ。法隆寺は世界最古の木材建築と言われているが、その所以は、木材の経年純化(今僕が勝手に造った)にあると思う。時が経てば経つほど、その物の真価がじわじわと滲み出てくるような。ただ、大事なのは、そこに手入れという人の手が加えられているということだ。法隆寺も、誰も見向きもせずに単に放置されていたのでは、廃屋になっていただろうと思う。その物に人の手が加わることで、その物の本当に良い部分が活かされる。そして同時に、手入した側の人も幸せになるのだ。これは近江商人の言う「売り手よし、買い手よし、世間良し」の三方よしの概念にもつながる。(自分の地元をさりげなくアピール)むちゃくちゃ強引に例えると、売り手は自分(手入れする人)、買い手はスパイク(手入れされる物)、そして世間とはまあ単純にそれらを見る人ということにする。手入れをすることから、今回のような気付きを与えられた自分は幸せである。その手入れをするという行為自体にも主体的な生産性を感じ取ることができる。充実感ともいえる。なぜなら、まず綺麗にすることは気持ち良い。綺麗になった物を見るのも気持ち良い。さらに手入れをすることによって次の試合のパフォーマンスが良くなるという確信がある。またスパイクは、放置されるよりもきっと手入れされることの方が幸せだろう。スパイクの気持ちは分からないが、手入れ後の見た目はめちゃ元気で潤っているように見える。「はよ次の試合して」と言わんばかりの態度をしている。そして、幸せになった自分と幸せになったスパイクをみる人たちは、きっと幸せな気分になるだろう。なぜなら、喜んでいる人を見ることや綺麗で美しい物を見ることは、たいていの場合、見る側の人も嬉しくなるからだ。そして、その時点で僕のスパイクは消耗品のようないわゆるただの物ではなくなっている。消耗品だけど、消耗品ではない。それはすでに僕の一部ともいえる気がする。

これは、自分という人間にも当てはまると思う。(めちゃくちゃ飛躍)
自分は自分をただ物として消費していないだろうか?
時が経つにつれ、自分という存在はどんどん価値を無くしていく”もの”として考えていないだろうか?

減価償却的な考えではイエスだし、時が経つにつれ肉体自体はどんどんすり減っていくものだ。資本主義的な現代社会では、それはつまりその人自身の価値も目減りしていくことを意味する。でも、本当にそうなんだろうか?年を取っているからこそ、物凄い賢者のような聖母マリアのようなオーラを出している人も実際に入る。僕は、人間存在自体は本来であれば、年を取るにつれどんどんとその価値を高めていくものだと思うし、そうあることが人間として生まれた使命なのだとも思う。そのためには、自分という存在に対して、能動的に手入れをする必要がある。それを怠れば、カッピカピのボッロボロのスパイクのように、ゾンビ―のような人間になってしまう。手入れの方法は人それぞれだから、基本的にはそこに善い悪いはないと思う。ただ、良い方向に向かっているのかどうかというのはまず念頭に置いてやるべき事なのではないかと思う。



昨日の自分より、今日の自分、そして、明日の自分は1ミリでも良くなっているという確信があるか?


と、そんなことを思わせてくれたスパイクくんとの15分間でした。

開幕戦、頑張ろ。

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