ブルックナーと私
もう肉の塊といった呈の裸の老人が、右横を向いて座っていた。灰色のパンツだけを着した姿で、大きな木椅子に腰掛けている。その姿は滑稽というより、神秘的に映った。私が入ってきても何の反応も示さない。側に立つ弟子が厳しい視線を向けてくる。そちらを見ないようにしながら、声を掛けた。
「んん」
肯きもせず口も動かず、太い首より僅かに張り出した喉仏だけが揺れた。深い瞳は窓外を見詰めている。室内には、爛々と輝く丸眼鏡の小男と、緩やかに揺れる燭台の炎だけが暗く佇んでいる。
出窓より外は芝生になっていて、幼い少女が白い犬と戯れている。さらにそのむこうには、黒々とした森が広がっている。
老人は少女を見ているのか、森を見ているのか気になった。妙な噂を聞いていたからだ。しかしその青い光彩からは何の感情も読み取れない。ふと、つるりと禿げ渡った頭が、呼吸に合わせて僅かに揺れていることに気がついた。
青年は首を振ると手を伸ばし、慇懃に左へと動かす。今日は帰れとの合図か。洒落た眼鏡に美しく英雄的な造形の顔、近頃の若者特有の取って付けたような髭。
ああ、この男が3番交響楽をピアノ譜に落としたという男か。
老人の横顔に目礼をすると、手にした箱を青年へと手渡す。グスタフと呼ばれた男は、スラヴ訛りの強い言葉で、老人の耳元に囁きかける。箱は老人の差し出した手の間に優しく差し込まれた。グスタフが紐を解く。老人はゆっくりとした手付きで蓋を開くと、
瞳を落とした。
グスタフの顔が強張る。みるみる紅潮する老人の顔。震える両手。
見開かれた瞳。
初めて老人が生きている証しを見たような気がする。
怒るにせよ何にせよ、この偉大な男の心に何らかの衝撃を与える事が出来たというのは、全くもって嬉しい。若者の震える拳が汗ばんでいる。でもこちらは腕の一二本折られたとて、構いはしない。
「苦労して手に入れたものです」
グスタフ・マーラーはわなわなと震えながら、箱を取り上げようとした。
だが、ブルックナーはそれを制した。
「ああ、ああ」
信じ難いことだった。もはや音符を書く事もできない呆老人が、この乾燥し枯れきった老人が、ゆっくり、ゆっくりと涙を流し始めたのだ。依然震える手で中身を取り上げると、暫く眺め入り、肯き、そのまましっかりと、抱きしめた。
弱々しくも確かな意志の感じられる動きであった。
一言だけ
「神よ」
と、呟くのが聞こえた。もともと下世話な興味と道楽からの訪問であったが、私は密かな感動を覚えていた。静かな時が流れる。グスタフは持って行き様の無い気分を持て余しているようだ。
不意に雨音が響き出す。きゃっ、と少女の声が聞こえた。拍子、老人の手から滑り落ちた塊は、勢い良く、粉々になってしまった。
頭蓋骨である。
闇商売は時折面白いものを手にすることができる。無論本物かどうか定かではないが、額の部分に確かに以下の文字が刻まれていた。
「L.B.B. 1827」
今となっては確かめようも無い。
そして再び老人は沈黙した。床の破片も少女も、遠い記憶と化したかのように。雨足が強まってきた。
訪問は終わり、老人はとうとう一度もこちらを向かなかったのだが、それでも生前のブルックナーに会えたという記憶は、これからも私を支えて呉れることだろう。やがてスター街道をのし歩くマーラーに出遭ったことよりも、ずっと重く、深い出来事であったのだ。
半ば陶酔しながらこの話を聞かせてやると、ワインに夢中のクナはにこりともせずに言い放った。
「やっぱり、単なる阿呆だったんだな」
ルビー色のグラスの向こうで、夫人がくすりと笑った。
私も、つられて笑っていた。(1998/2)
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