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麦ちゃん

麦ちゃんは裸足で、とぼとぼと歩いていた。

焼けたアスファルトに棒くいのようなものが林立しているのをよけながら家に向かっている。

家族は家にいる。

お父さんは生まれてすぐに外国に行った。

家がどうなったかもわからない。

麦ちゃんは一人だった。

麦ちゃんは警報が鳴ったとき裏でおしっこをしていた。

ごうんごうんといういつもの音が

いつもとは違ういつもの音が重ねて重ねて

サイレンも鐘も

大砲の音もしばらくはなっていたのだけれど

麦ちゃんは耳がきこえなかったから

明滅する紅い光と煤けた風と、目の前に落ちて蟻地獄のような穴をあけたかたまりの、

不発の前にへたりこんだままただ泣いていた。

目も鼻も黄色くて茶けた匂いで焼け爛れていくような心地がした。

麦ちゃんの家の屋根から、紅い火の手があがるのが見えた。

夜中の焚き火のように思った。だって麦ちゃんは耳が遠いのだ。

こないだの空襲のときから。

麦ちゃんは怖かったけど、家に入りたくて仕方なかったけど、防空壕だってもういっぱい
だからみんなといっしょに家に入りたくて。

でも麦ちゃんの家はもう紅く焼け爛れて、旧瓦が滑り落ちてそのまま煙に巻かれて、もう紅蓮のなかに見えなくなってしまっていた。

熱かった。とても熱かった。麦ちゃんはおかあさんと叫んだ。おにいちゃんと叫んだ。

太い腕が麦ちゃんの胴体を捕まえて、走り出した。麦ちゃんは泣き叫んだ。

麦ちゃんの小さな家がもう暗闇と紅蓮と、低く空とぶ鯨の照り返しの中に消えた。

みんなといっしょにいたい

みんなといっしょにいたい

おかあさん

おにいちゃん

おばあちゃん!!

おばあちゃあああん!!!

太い腕はそのまま麦ちゃんを高台に置き去りにした。

目の前には昼間のように明るい家々が明滅していた。

紅く、黒く、紅く、黒く。

煙は麦ちゃんの下すれすれを流れていった。うしろの墨田の川面にたくさんの麦わらのようなものが流れるさまが見えたけど、麦ちゃんにはそれが何なのかわからなかった。もう嗅ぎ慣れたあの厭な匂いが立ち上ってきた。

おかあちゃん!!おかあちゃああん!!

麦ちゃんの頭に大きな手が載った。

毛むくじゃらの指が麦ちゃんの両の瞼を覆った。

麦ちゃんは不思議に落ち着いた気になった。

一面を多い尽くす煙と届かない高射砲の花火のようなぽんという光、墨田の焦げた川の流れ。

低く頭を擦るような怖い怖い鉄の鯨が、昼間のように明るい光で煙霧を照らしながら、卵を産むように黒い焼夷弾を落としていく。

ああっ

うちだ

うちだよお

防空壕ももう跡形も無い。

麦ちゃんはそうして金竜山の上で座っていた。

頭の上の手のひらが徐々に重みをうしなっていった。

麦ちゃんはやがて山にのぼってきた黒い臭い煙のなかで気をうしなった。


麦ちゃんは瓦礫を歩いていた。煙はすっかりぜんぶを焼き尽くしてそこには熱い地面ともう燃やすものはないといったふうの風景が続いていた。

表札が落ちていた。半分焼けていた。

家のがらだけが残っていて、それでも麦ちゃんは玄関からきちんとはいって、上がりぶちのような黒い塊の上できちんと靴をそろえるふりをして、

きびしいおかあさんに怒られないように、足の裏に木屑がまつわりつくのもかまわず、

おかあちゃん!!おばあちゃん!!にいちゃん!!

家のすべては何か変な塊になってそれぞれの場所に固まっていた。

煙はひけていた、天井も壁もなかったのだから。間取りだけで部屋をさがし、回っていた。

えーん

声は出ても水も飲んでいないし喉もやられているから泣いているように見えない。真っ黒の顔をしているから泣いているかどうかもわからない。

おふろだ

そこには狭いタイルの生白い面だけが、焼け焦げた木屑の中に露出していた。

桶の狭い五右衛門の中に、まるで箸立てのように黒い棒がたっていた。みっつ。

身を寄せるようにして、ただ身をよせるようにして、

桶は狭いから、半身を桶から出して、

そこには人だったことが辛うじてわかるくらいの

三体の身体が肩をよせあい、顔を内側に向け、

黒く固まっていた。

麦ちゃんは何がおこったのかわからなかった。

麦ちゃんは桶の中をのぞいた。そこには白い足が六本あった。ふしぎと透明なままの水が、蝋燭のような細い足が四本、少し短くて太い足が二本、水のなかに立っていた。顔をあげるとそこには、

静かな顔をした

みっつの顔があった。

麦ちゃんはおかあさんに何か話しかけた。

麦ちゃんはおにいちゃんにも話しかけた。

おばあちゃん

ただ最後に一言言うと、顔を抜いて、風呂桶から身を引いた。

背を焼かれた黒い身体が三体、身を寄せていた。

太い腕が麦ちゃんの頭にのっかった。

麦ちゃんは疎ましいとおもった

麦ちゃんは風呂桶に戻ってみんなといっしょになりたいと思った。

ちょうど真ん中だけ、麦ちゃんのための隙間があったのだ。

みんな麦ちゃんを守るために隙間をあけていたのだ。

麦ちゃんが戻ってきたときのために。

麦ちゃんはみんなといっしょにいたかった。

駆け寄って、いっしょに。

「駄目だ」

太い腕が麦ちゃんの頭を押さえた。

「麦子、みんなのぶんまでがんばるんだよ」

腕はやがて麦ちゃんの頭をとおりこして、

まるで箸立てのような風呂桶の横に立った。

お父ちゃんは泥まみれの軍服のまま、爛れた顔を麦ちゃんに向けた。

するとぼろぼろと、家族の身体が音をたてて崩れた。

麦ちゃんの聞こえない耳にもその音は聞こえた。

崩れた体の中からあらわれたのはしら骨だった。

みっつの白ほねが静かに、まるで床に正座をするように、ただ残った両の足をいずれもきちんと折り曲げ、桶の外に崩れて落ちた。

お父ちゃん!

「麦は元気だ」

お父ちゃん・・・・みんな死んじゃった

「麦は生きていくのだよ、どんなことがあっても生きていくのだよ」

がらがら、と壁がくずれた、そこにはもう風呂場はなかった。

お父ちゃん

「千葉のほうに行くんだ、伯母ちゃんのところに行って、あとは伯母ちゃんにまかせて」

「お父ちゃんもじきにかえってくる」

「お父ちゃんはマラリヤにやられた、戦争はまだ終わらないけど、先にかえってくる。心配しないでも伯母ちゃんにまかせて」

お父ちゃん・・・おとうちゃん・・・おとうちゃん

・・・麦ちゃんが生まれたとき、お父ちゃんは軍人だったからすぐに南方に行ってしまって、麦ちゃんはお父さんを写真でしか知らない。

おとうちゃんにだっこされたかったなあ。

おばあちゃん・・・もっとお手伝いしてあげればよかったね、おにいちゃんごめんね、

おかあちゃん、おかあちゃん


おかあちゃん


麦ちゃんはやがて見回りに拾われて、そのまましばらくして何か戦争が終わったというので、上野にいってみた。仲間もできた。麦ちゃんは大人になっていった。

・・・

ばあちゃん、まだDSやってんの?返してよ

やめられなくなっちゃうのよねえ、ほら、すごいでしょ

ええ、俺より年上じゃない、すげえ

ばあちゃん英語しゃべれるの?

麦婆さんはにこにこしながら孫の頭に手を置いた。


麦婆さんはDSの英語検定に夢中。

孫たちは婆ちゃんの奮闘振りをブログにあげた。

あまり順位は上がらなかったけど。

2007/8/16

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