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③荒ぶる

そんな幼少期を過ごした私は、自分というものをどう保ったらいいのか、どのように人と付き合ったらいいのか全然わからないまま体だけが大きくなっていった。

正論だけがまかり通る家

正論がまかり通らない学校での人間関係


被差別部落は貧困が多く、家庭環境が悪い子も多い。親が蒸発した、なんてうわさもよく流れていた。蒸発ってなんや?人間は消えてなくならんよ。

ウソ、暴力、いじめ、たばこ、シンナー

中学生になったらこんなものが当たり前のようにあった。正論では生き抜けない。本能的にそんな風に感じていた。

ウソをつく。差別をする。そんな子がクラスの中心にいる。そんな世界。

中学に入って部活を始め、勉強もそこそこできて、友だちもそれなりにいて・・という生活だったはずが、うまくいかない。
中学時代は暗黒時代である。それなりにいる友だちとの付き合いは、それはそれはしんどかった。なにをどうすればどうなるのかわからない。ヘタをするとターゲットになりいじめられる。ヘタがなんなのかもよくわからない。いじめる側にもなった。
家で相談しようにも正論しか言わない両親に言えることは何もない。

「正論」は時に暴力となる。

「誰に対してもおかしいことはおかしいって言うんや!」
っていう徹矢。娘に対しても
「おかしいやろ!」と言ってくる。
「おかしいことはおかしいって言え!」と言ってくる。

そんな中学時代、私は荒れに荒れ、正論ばかりをぶつけてくる両親をどうやって困らせてやろうかと考えて行動していた。なんの主張も理屈もない。
今や笑い話。当時は本気である。
色々とやらかした。やらかしてやろうとしてやらかした。
でもなんの達成感を感じたこともなければ楽しいとも思っていなかった。
荒れている本人は、苦しくて、悲しくて、どうしようもなくて、誰にも言えなかった。一緒にやらかしていた友だちはいたけど、相談する相手はいなかった。


その時期、私は2つの場所でとても救われていた。
今も西成で活動を続けている「こどもの里」
そして夏に子どもたちが中心となって開催されるキャンプ。(ここはあまり情報をネットに出したくない場所なので、興味がある方は直接私に聞いてね)

こどもの里では土曜の夜に「子ども夜回り」というのをやっていて、よく行っていた。家でも学校でもない場。日々のしんどいことやうまくいかないことから離れられる時間。
夏には北海道へ。そこは電気もガスも水道もない森の中。なんやったらシカやクマも出る。大人はいるけど、サポートのみ。基本的なところは子どもたちでやっていく。
今思うと、似た境遇の思想の親の子が来ていたのかもしれない。そんな場所で、しんどい環境から距離的にも気持ち的にも遠く離れられて、すごく救われていた。救われるために行っていた。


それでもやっぱり地元に帰ると荒れる生活が始まる。
学校では相変わらず人間関係が大変で、家に帰ると誰かとケンカ。
徹矢のことは大っきらいだった。しょっちゅうケンカしていた。

そんな毎日がある日強制終了された。
妹が不登校になっていて、母と妹は行く場所を探していた。そして見つけてきたのが千早赤阪村の山村留学。
妹と母で村に移住するという。当時私は高校生。そして家族ともうまくいっていない。同和住宅で家賃が激安。
そんな条件がそろい、私は西成に残ることになった。姉は高校を卒業し、海外留学すると決めた。
なんとふれるとケンカが勃発する関係だった徹矢と二人で生活することになってしまったのだ。

「え、どーしよ」


人間は追い込まれるとどうにかなるものである。
そんな気持ちを整理することもできないまま始まった徹矢との二人暮らし。私の荒ぶる青春は突如終わりを告げたのだった。
徹矢は毎日ごはんを作ったり、洗濯したり。もともと家事はしていたけど、母がいなくなって、それが毎日のことになった。週末は美紀のもとへ通う徹矢だった。


私が荒ぶっていたこの時期、実は雑草舎崩壊していく時期とまるっとかぶっている。


徹矢はこの時期のことを今振り返って

「だいぶん調子に乗りすぎてたんやろなあ」

と振り返る。雑草舎という活動家界隈から注目されるものを作り、仲間が増え、一目置かれる存在になっていた30代の若いころ。そりゃあ鼻も伸びるよね。

それが毒となり、仲間から、娘から反発されていたのかもしれない。



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