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3. 夢の場所、雑草舎

一方美紀は、私たち姉妹が通う保育園で出会った障害児を持つ保護者たちと、学童保育所を立ち上げていた。


保育園から小学校へ上がる、今でも言われる小1問題である。

保育園のうちは働く時間帯預けられていたのが、小学校にあがると、毎日お昼に帰ってくるようになる。

障害を持った子を家で留守番させるわけにもいかず、困った保護者達が集まって、保育園の一角を間借りして学童保育所を始めたのだ。


そして学童保育所としても、労働組合としても必要となってきたのが拠点である。
保育園のすぐ近くの路地の中に建つあばら家がみつかり、その物件を購入した。

その購入資金はモミジ鉄工所訴訟で勝ち取った未払い賃金だった。

裁判では、会社(被告)は「解雇したから支払う必要なし」と主張。
原告は「解雇は無効だから労働させろ!毎月の賃金を払え!」と主張。
そして原告勝訴、ということは、解雇からそれまでの期間の賃金を遡って支払わないといけない、という判決になります。

その拠点は、1階を学童保育所として、2階を労働組合事務所として使うことになった。

徹矢と美紀が取り組んでいたことは、労働組合と障害児の問題であるのだが、そこに関わる人は、被差別部落に住み、外国籍を持ち、いわれなき差別を受けている人たちや、それを解決したい、と意志を持ち集まってきた人たちである。

問題は一つではない。貧困問題、民族問題、差別問題を紐解いていくと、天皇制というものが必ず出てくる。天皇制こそが差別の象徴であり、国家として行っている差別制度なのだ。

当時、その拠点には問題を問題としてとらえて改善していきたい、と考え集まってくる人が年々増えてきていた。

拠点は1階2間、2階2間の小さなあばら家である。あっという間に手狭になり、次なる拠点を探し始めた。しかし理想通りの建物は簡単にみつからない。

そして見つけた次なる拠点は工場跡地。それを購入し、今度は自分たちでビルの建設をしたのである。

中心となった人物は、やはりモミジ鉄工所を解雇された4人だった。金はないが、時間はたっぷりある。

一つの裁判が終わるたびに、「解決金」や「未払い賃金」という名の資金が入ってくる。それを活用し、学童に子どもを預ける保護者や、関わる活動家から資金を集めた。クラウドファンディングのない時代である。

古い建物を解体し、穴を掘り、基礎を打ち、鉄骨を建て、1年の時をかけて次なる大きな拠点が完成した。1983年のことだった。

踏まれても、踏まれても立ち上がる雑草のように、という想いを込め、付けられた名は、

「雑草舎」

3階建ての鉄骨鉄筋コンクリート造の1階は学童保育所、障害者作業所のパン屋。

2階は労働組合事務所と会議室、3階は住居となり、2組の世帯が住んだ。

雑草舎は、関わる人たちで資金を出し合い、みんなで協力して建て、みんなが共存共生できる大きな存在となったのだ。
子どもの居場所、働く場、労働問題、貧困問題、差別の問題、そして天皇制や政治の問題。すべては暮らしの横にあり、みんなが豊かに生きていく為に必要とされて生まれてきた活動なのだ。

その必要な活動の拠点機能をすべて集約した雑草舎は、そこに関わる人たちにとっては、夢のような場所であったのだろう。

雑草舎ができてからは、創業をお祝いするお祭りや、バザー、餅つきなど、毎年恒例のイベントが行われ、大きな活動グループとして社会活動をしている人たちからも注目される場所に成長していった。

時代は昭和から平成へのカウントダウンが始まっていた。

その頃、天皇制反対の運動も大きな盛り上がりを見せていた。昭和天皇が亡くなるかどうか、という中で、たくさんのことが「自粛」という言葉で中止され、報道は天皇の容態を伝える番組に差し替えられることが頻発。

そんな情勢の中、昭和天皇が亡くなる翌日に予定されていた「天皇制反対」のデモは3000人の人が集まったとても大きなものだった。その年の2/24の昭和天皇の大喪の儀に合わせて行われた集会、デモにもたくさんの人が集まった。

世間からも注目され、たくさんの人が集まり、社会問題を熱く語り合い、作戦を練り、行動に移す、という充実した日々。


実は足元から崩れ始めていたことに気づくのは、もう少し後のことである。



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