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①幼少期

私は1975年、大阪の西成区で生を受けた。3人姉妹の真ん中。

1975年というのは、終戦から30年、第二次ベビーブームも終わり、少子化の始まりのころだったのかもしれない。西成区といっても、西成として有名な場所は釜ヶ崎と呼ばれる場所。釜ヶ崎というのは西成の一部でしかない。

私が生まれ育ったのは西成の西の端っこにある工場地帯で、少子高齢化が進み始めていたように思う。

そんな町の文化住宅で幼児期を過ごし、小学校に上がる前に市営住宅に移った。

当時、私が住んでいた地域は、文化住宅や長屋がひしめき合い、そこに少しずつ市営住宅が増えていっていた。文化の2間で5人家族が暮らす、そんな家庭も少なくない時代。

その頃、部落解放同盟はもっとも権利を獲得し、盛んに活動していたのではないだろうか。水平社として動き始め、部落解放同盟に継承された人権を守るための活動で獲得した権利は、肥大化の一途をたどっていた。

たくさんの同和対策事業が行われていた。
住宅対策としては、同和対策事業に参加し、活動すれば順次住宅に格安で入居できる仕組みになっていた。そんな仕組みの市営住宅が私の家。
団地の7階。3DKでわずか数千円の家賃。横には黒くて淀んだ川に、大きな水門が構え、タンカーや運送船がしょっちゅう通っていた。
夏には天神山の船が通ったり、花火大会の花火が遠くに見えたり、地域でも夏祭りや盆踊りがあちこちで行われていた。



ものごころついたころには気軽に学童に通い、集会だ、会議だ、デモだ、抗議行動だ、とあっちこっちについて行った。徹矢が仕事をしていないことも、さして疑問にも思わず、
「お父さんの仕事はエイエイオー!」
と無邪気に言っていたようだ。

それは、私にとっては当たり前の日常だった。

徹矢の争議で会社側はずいぶん弾圧を画策し、(実際に警察との密約に立ち会った人の証言を聞いたらしい)住んでいた文化住宅に警察が乗りこんできたこともあったとか。近所の人に特に何も聞かれなかった、と美紀は言っていたが、周りの人がどう思っていたのかは、今となっては知る由もない。


小学校に上がるころには、平日は両親についていくこともなくなり、姉妹3人でしょっちゅう留守番をしていた。

テレビは一日ふたつまで。お菓子もめったに買ってもらえない。寝るのは9時。服は古着。おこづかいも少ない。
何かというと「うちにそんなお金はない」
買わないと言ったら絶対買わない。
これがうちの当たり前だった。
絶対買わない、とわかっている大人に対して、子どもというのはネダったりゴネたりするという無駄なことはしない。というくらい絶望的に願いは叶わないと思っていた。

そんな日々を送っていた私たちにとって、両親が出かけていなくなる時間はまるで天国のようだった。テレビが見放題なのだ(笑)

団地の8号室、エレベーターから数えて8軒目。廊下から聞こえてくる足音に耳を澄ませながらテレビを見る。普段美紀がいやがる種類の番組も心置きなく楽しめる。帰ってきたらテレビを消す、電気を消す、布団に走る(笑)
姉妹で担当を決め、小さかった妹にも段取りを確認。

「あ!帰ってきた!走れ!」と布団に飛び込んで寝てるふり(笑)

足音は通過していった。10号室の人やった~。よし、まだテレビ見れる!


本当にしょっちゅう徹矢と美紀は2人そろって家を空けていた。

大人になってから私たち3人姉妹はその頃の印象はそれぞれ違う。

「あんなに子どもほったらかしたらあかんやろ」と姉
「いつもおらんかったから寂しかった」これは妹
「自由で嬉しい!」私・・

同じように育ててるつもりでも受け取ることは違う、というのがよくわかる。


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