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私が長風呂できなくなったわけ

小さい頃から銭湯は身近だった。長風呂するのが好きで、父親からは「いつまで入ってるんだ」と呆れられたことも。一時間くらいだから、決して長い方だとは思わないんだけれども、どうやら世間ではそれを長風呂というらしい。

社会人になって働くようになって、長風呂をすることが減ったように思う。家の風呂はもちろん、銭湯に行っても。
温泉地の朝風呂は、無論別だ。早起きして、何時間でもいられる。だが、街で風呂に入ると、あまり長居できずに湯槽から上がってしまう自分に、どこかしら物足りなささえ、感じていた。

今日、銭湯に行ってきた。逸るこころがあって、それを落ち着けたかったし、天井の高い空間で素っ裸のまま、ぼおっとしたかった。

服を脱いで、垢擦りを持ち込んで、体を備え付けの石けん(今はボディウォッシュというのね)で洗い、流しきよめて湯に入る。

わかった、長風呂できなくなったわけが。

ぐわわーんと回る銭湯の釜の音、その中に熱いと思いながら腰を下ろすと、その日起きたことが30倍速で早送り再生されるのだった。九時間が18分に圧縮される。現代人の1日は江戸時代の一年分の情報量という話を考えると、寝ている時間を除けば、江戸時代の半年分の情報が、風呂に浸かってる自分に襲いかかる。

たまったものではない。

ほうほうの体で逃げ出す。

もう一度、心を鎮めて、湯に浸かってみると、また半年分が頭の中をグルングルンしだす。心の中で整理したいと思っていても、声を出すわけにはいかない。

声を出すわけにはいかない?

そうだ、小さい頃父と入った銭湯でも、旅先の温泉宿の朝風呂でも、常に語らう人はいた。声をあげて受けとめてもらえる、私以外の誰か。そこで私の頭の回転数が、きっと等倍まで落ち着く。私が私の声なき声を受け止めるのは、もう少し先のことのよう。主体であり客体であるなんて離れ業、今の自分にはちょっとばかしハードルが高い。

ちょうどそんなころ、銭湯から人が絶えた。浴場を独占している状態。
釜の音が響く中で、これなら、と思ってつい始めたのが、低い声で呻ること。お坊さんがお経を読む、あれくらいのトーン、のつもり、で口を開けたり、閉じたり、とにかく「あー」とか「むー」とか呻るのだ。

頭の中を頭蓋骨で共鳴した響きがこだまする。それが心地よい。頭全体で呻りながら、音の発信源を喉の奥の奥へ落としていく。へそした丹田を意識して、無理のない、低い音で。

ただ呻るだけではつまらないと、昔習ったフランス語で一から百まで数えてみた。十ごとに呻りをやめて、次の数から呻りなおしてみる。そうすると、本当にお経みたいになっていく。こちらも調子が乗ってくる。

気づけば、半年分の情報はどこかに行って、ただひたすらにうなっている自分がいた。いや、気づいたのはもっと後かもしれない。

百まで数えて、目を開くと、若いお兄さんが訝しげにこちらをみていた。一瞬恥ずかしくなったが、そもそも裸だ。隠れるといっても湯の中くらいだろう。

最後にもう一度湯に浸かり、ふぅと息を吐くと、時間の進み方は等倍に戻っていた。気になっていた肩の力も、こころなしか、緩んでいる気がした。

そういや、昔小さい時、銭湯でうなるおじさんいたな。多分、自分と同じこと考えていたかもしれないんだな。地唄の練習だったのかもしれないけれど。

もし、お風呂で呻る人を見かけたら、きっとその人は等倍の、自分の身丈にあった時間をここで取り戻している、そうなんだと、やさしく見守ってやってほしい。

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