恐怖の飛沫
時は平成も半ば前の初夏、バンド仲間数十人でイベントの打ち上げをすることになった。
バンド仲間とはいえ、自分のバンドは一番年下で周りは先輩。バリバリの体育会ではないが、先輩後輩の関係は”一応”ある集まり。
数十人ともなれば場所はおのずと大箱の居酒屋。当然あらかじめ席が決まっているわけではないので、適当に座る。話したい先輩もいるので、ちょっと楽しみだった。
が、目の前に座ったのは、ちょっと苦手な小太りで長髪のC先輩だった。
いちいち発言がウザく、音楽の趣味も合わない。
その上、上にはヘコヘコ、下には偉そうな態度を取る、そんな人。
飲み始めると調子にのりはじめ、「ロックとは?」を長髪を撫でながら語り出す。
「お前のロック話はどうでも良いわ!」と思っていても言えない。
"一応"先輩なのだから。
酒も進みどんどん調子に乗るCは、
「お前、この青りんごサワー、一気飲みしてみろよ」
と髪を撫でながら言ってきた。
何だこの学生ノリは?めんどくせーから飲んでやろうかな?とも思ったが、妙に顔がニヤケている。
手元を見ると、箸にベットリとワサビが付いている。
なるほど、ワサビ入りのサワーを飲ませる気なんだな。
「俺、サワー好きじゃないんでCさん飲んでくださいよ」
と断るも、Cは飲め飲めとしつこい。
ワサビと分かってて飲むかバカヤローと思いながら、こちらもしつこく断る。
しばらくすると、最年長グループに分類される先輩のIさんが横に座り、
「Cよ〜。後輩に飲め飲め言うんだったら自分で飲まないとダメだろ〜」
と、ワサビ入りのサワーだと分かった上で言っている様子。
もちろんCは、
「はい!Iさん、いただきます!」
と、一気に飲み干した。
相変わらず、先輩には従順なC。
「うまかったか?」
「はい!最高です!」
そんな訳あるか、と思っていると。
「じゃー、もう一杯飲んでみろよ」
「はい!すみませ〜ん、青りんごサワーおか」
オーダー途中でIさんが遮る。
「そうじゃねーだろ。お前が今飲んだのと同じものをもう一杯飲めって言ってるの」
青ざめるC。
しかし、先輩には従順なるC。
隣のテーブルの刺し盛りからごっそりワサビを箸でつまみ、焼酎の水割りに入れ混ぜた。
サワーですらなかったのである。
「それが、青りんごサワーか?」
Iさんの問いかけには無言でもう一杯飲み干すC。ちょっとむせる。
さすがIさん!と目で訴えるとIさんも、痛快そうな笑顔でこちらを見る。
その後、Cは無言で甘い酒を飲み続け、自分はIさんと盛り上がった。
Iさんが、
「ロックはシャッフルだ!!ガッタ!ガッタ!ガッタ!ガッタ!お前もやれ!ガッタ!ガッタ!ガッタ!ガッタ!…」
と、しつこい口シャッフルタイムになったのは、ちょっとうざかったが。
Iさんのおかげで楽しい宴は終わり、帰路へ。
と思いきや、みんなでスタジオでセッションだ!とさらに盛り上がり、各々スタジオに向かう。
ここで一旦、バス組と電車組に別れた。
電車組なので電車に乗った。Cも電車組だった。
座れないほど混んでいないが、座るまでもない距離なので車両の1番端っこのドアの近くにバンドのメンバーでかたまる。
CはCのバンドのバンマスと車両中央部に空き席を見つけ座ろうと試みたが、1席分のスペースしかなくCが当然のようにそこに座った。
距離を置いて、自分たちは今日の宴は楽しかったなぁー、この後のセッションも楽しみだなー、などとたわいもない会話。
バッファーン!!
突如、聞いたこともない破裂音が鳴ったかと思うと次の瞬間、車内を埋め尽くすように、蛍光灯の光を反射し何かキラキラしたものが空気中をフワフワとゆっくり舞っている。
綺麗だなぁー、なんて思う間もなく、メンバーの1人が、
「クッセー!」
と、小声で呟いた。
確かにくさい。
なんだこれは!?と車内を見渡す。
ツマミいっぱいにディストーションをかけたように歪んだ顔の乗客たち。
その視線の先には、目から下を両手で覆うも、その両手は汚れており、自慢の長髪も濡れているCの姿が。
足元にゲロ。
空気中をフワフワとゆっくり舞っていたモノはCのゲロだったのだ。
息を止めた。
車内いっぱいにフワフワと広範囲に舞ったそれは、乗客を驚かせるには十分なものだった。
大げさではなく、Cと自分たちの距離を考えると、被害範囲はほぼ一車両に及んだであろう。
あまりの出来事に自分たちはもちろん他の乗客達も誰も何も言葉を発せられない状況が続いた。
そんな沈黙を破ったのは、Cだった。
「バンマス〜、バンマス〜、助けてくれ〜」
とバンマスを呼び、すぐさま着いた次の停車駅で降りた。
Cたちが降りてからザワつく車内。
特に声を荒げはじめたCの目の前にいた人や、横にいた人。その被害はひどいもので、遠目で見ても消化されていない吐瀉物と判断できるものが衣服に付着していた。
「サイテー!!」と怒気を持って呟いた女性の声。確かにサイテーだ。
消化されていない吐瀉物の被害を考えると、自分らはまだ霧雨のようなゲロがかかったくらいだからまだ良いかとも思ったが、霧雨のようなゲロの中に…、満遍なく全身をCのゲロに包まれたと思うと最低な気分だ。
乗客達は「駅員に言おう」「車掌はいるのか?」「クリーニング代は?」などと話し始める。被害者の一体感。
Cと距離が離れていたため、自分たちはCのことは口にしなかった。Cと知り合いだと乗客に知られるとややこしそうだからだ。
他の乗客達はもちろん、自分たちも不機嫌だった。
聞き耳を立てていると、どうやらCはくしゃみと共にゲロをし、手で口を抑えたため、ゲロが飛沫となり車両一体に拡散したらしい。
今回の加害者ともいえるCが何も言わず逃げるように下車していったのだ。
不快に思わない人はいないだろう。クセーし。
メンバーの1人が横のメンバーを指差して言った。
「お前、おでこにマグロのってるぞ」
指差した方を見ると、確かにおでこにCが咀嚼したであろうマグロと思しき物体がのっていた。
マグロかどうかはわからないが不思議なおかしみ。
皆で笑いを堪える。
スタジオ最寄駅に到着し、下車した途端この事件を皆で振り返りしばらく笑った。
「俺ら、Cのゲロに包まれてくさいんだよね。。。」
誰かが言ったその一言で皆、我に返った。
スタジオに行くのはやめ、各自、家路につきシャワーを浴び、夜中にも関わらず洗濯をした。
以後、この出来事は「Cのくしゃみゲロ事件」として一部では悪しき伝説として面白おかしく語り継がれることになったが、C当人は何事もなかったかのように長髪を撫でながら過ごしていた。
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