短編小説 いつかの暗闇

「冷めてもおいしいコーヒーってあるけど、やっぱりあったかいほうがおいしいからさ」
 彼と別れたのは銀杏並木がまだ青々とした秋の入り口で、強い日差しを掻き分けて向かった午後の喫茶店が満席で入れなかった私たちは銀杏の木の下の陰に隠れながら別れ話をした。

「出会ったばかりの頃だったら一緒に着いていってもよかったなぁ。でもいまは違うなぁ」
 2年付き合った彼は私が他県へ職場が異動になると言ったとき、そう言ってそれきりだった。え? じゃあ出会ったばかりの頃に私が異動になったらどこまでも着いてきてくれたわけ? タイミングのせいにされて私はなんて返したらいいか分からなかった。
「俺もここでバンドやっててだんだん人気出てきたからさ? いまはここで地に足つけてバンドやりたいんだよね」
 言葉が合っているようで間違っている彼のそういうアホっぽさがいままでは好きだったけれど、もうそれさえイライラしてしまって、
「うるせえ! 勝手にバンドやってろ!」
 そう吐き捨てて部屋を出た。部屋の家賃は私が払っている。そこに彼は私と一緒に住んでいて、私は彼が住む場所に困ってしまうと思って一緒に行こうと言ったのに、というかそこまで言ったら「じゃあ結婚しよう」とか言ってくれりゃあいいのに。別に素敵なプロポーズを求めているわけじゃないから、成り行きでも「結婚」という言葉が出ればいいなと思って左手の薬指に嵌めているなんでもない指輪を眺めていた私は馬鹿みたいだ。

「奥様にお似合いですよ」
 試着室から出てくる私を見た店員から彼がそう言われるのは休日だけ左手の薬指にお揃いの指輪を彼と嵌めていたからだった。付き合い始めたばかりの頃、彼が初めての彼氏だった私は「お揃いの指輪を買おう」と彼に言われて言われるがまま左手の薬指に合う指輪を一緒に買った。高い物でもちゃんとしたエンゲージリングでもなくて、雑貨屋で見つけた同じデザインの指輪をそのときはじゃれあって買っただけだったが、彼がいつも左手の薬指にそれを嵌めてくれているので私も休日は嵌めていることが多かった。でも少しずつ冷静になったときに「結婚していないのに左手の薬指に指輪を嵌めているのはちょっとイタいな」と思って、彼と一緒の時以外は嵌めなくなっていた。
「もし別れたら」
 指輪を買った日、帰り道に歩きながら彼は言った。
「もし別れたら、お互いにお互いを忘れるまで指輪を右手の薬指に嵌めておいて、それで忘れたことに気づいたら指輪を捨てよう。忘れたらじゃなくて、忘れたことに気づいたら」
「忘れることと忘れることに気づくって違うんだ?」
 なんだか詩的だなと思い、今度の曲の歌詞がそんな感じなのかなと思いながら聞いた。
「忘れ物って忘れてる時は気づかないじゃんか。でもどこかで忘れたことに気づく。レジでお金出そうとして財布忘れた! って気づくみたいに。忘れてるって分かってるうちは忘れてなくて、忘れてるって分からなくなってるときに本当に忘れてるんだなぁって思うんだよね」
「へえぇ。それもそうかもね。でもレジでお金出すときに財布忘れたって気づくのは遅いよ」
「俺、そういうところあるんだよ。だからもし別れてもずっと右手に指輪してると思う」
 馬鹿だなぁと思いながら、別れてもずっと私のこと想っていてくれるんだと思うと嬉しかった。とにかく私は初めての彼氏で浮かれていたので「もし別れたら」といういままでに存在しなかった「もしも」を話すのがやたらと楽しかった。
「じゃあもし別れたらデートで行ったところにひとりで行ってインスタでふたりだけに分かること書こう」
 私はそういう「匂わせ」みたいなことがしてみたかった。そんな投稿がいままでちょっと羨ましかった。
「じゃあ俺はひとりで行って、ふたりで行ったときみたいに写真撮るよ。右手の指輪も写してさ」
「わぁーそれいいね。私もそうしようかなぁ」
 私は無邪気に「別れたあと」の話をしていたから2年後に本当に別れるなんて思ってもみなくて、言霊ってあるのかもしれないなと部屋を出てずんずん歩きながらふとそのときのやり取りを思い出していた。

 あとから追いかけてきた彼と別れ話をして、家電は全部あげるから早く次の部屋を見つけなさいと念押しして、下期から異動になる私は急いで引っ越しの準備を進めなくてはいけなかった。異動なんてもっと早く言ってくれればいいのに、どうせなら2年前に言ってくれればこんなことにならなかったのに、泣きたくて泣きたくて、でも涙は出なくて、沸き続ける怒りのエネルギーのお陰でてきぱきと引っ越しの準備は進んで、捨てるべきではないものまで捨ててしまったような気もするけれど、どうにかこうにか彼にも新しい部屋を見つけさせて、そこに大きな家電を全て送ることになった。
「家賃ってさ、結構するよね」
 うわぁもう馬鹿かこいつは、と殴りかかりたくなるのを堪えた。
「そうだよちゃんとバンドで稼いで家賃払いなよ」
 どんな歌を歌っているのか私は知らない。なんだか、彼が歌っている姿やその歌は彼の一番恥ずかしいところではないかと私は思っていて、彼の裸を見るよりもよっぽど恥ずかしいところを見てしまう気がして見られない。だから彼のバンドにどれくらい人気があるのかも知らない。歌詞も知らない。もう別れるから知る必要もない。頑張ってひとりで生きてください。私も頑張ってひとりで生きてゆきますので。
 ほとんど物がなくなった部屋の彼と私とギターだけがあるリビングで私ははっきりと恋の終わりを感じた。このギターに彼を取られたような気分で、というか彼が私よりギターを取ったので、さながら浮気した彼と浮気相手と直接対決をしている感じがして、私がギターと彼を問い詰めるような構図に笑えてきて、なにがロックだフォークだパンクだ、お前たちは私がいないところでどんな音を奏で合っていたんだ言ってみろ、とふたりを懺悔させたくなった。
「なんか一曲弾いてみてよ」
 分かった、と彼は言って、ギターケースからエレキギターを取り出して、なににもつながないでころころ弾き出した。かちゃかちゃ、と情けない音で鳴らす姿はやっぱり恥ずかしくて、
「もういい。もういいから」
 ギターを握る彼の左手を押さえて、なんの曲かも分からないうちにやめさせてしまった。薬指に指輪を嵌めているのは彼だけで、浮気相手の前で指輪嵌めてんじゃないよ、と思うと泣けてきた。鼻水も垂れてきて、彼の左手を押さえたまま泣いた。
「うぅっ……。うぅ……」
 なんでこんなに泣けてきてしまうのか、声だけは我慢しようとして息を詰まらせるように泣いていると余計に惨めな泣き方になってしまう。
「私はただ一緒にいたかっただけなんだよ……」
 いまさら遠距離でも付き合おうなんて言い出せなくて、私たちは別れるしかなかった。

 私が異動になったのは冬は雪深くなる街で、上司から「車の運転だけは気をつけろよ」と、車の運転以外の仕事に関しては早くも信頼してもらえているようで嬉しかった。仕事が好きで、彼と別れたのは転勤の可能性がある職種を選んでしまった私のせいでもあるけれど、別れて少し経つと仕事の面白さに彼のことは忘れてしまっていた。
 「忘れてしまっていた」と気づいたのは、彼のバンドの名前を街でたまたま目にしたからだ。駅ビルの中でいつもはただ通り過ぎるだけのCDショップの前に貼られていたポスターにバンドの名前が入っていた。ライブツアーで全国のライブハウスを回るらしい。それで今度、この街にも彼のバンドが来ることになっていた。
 彼のバンドが来るということは彼も来る。ポスターをよく見ると小さい写真に彼の顔があった。それで私は彼を忘れて仕事をしていたことに気づいた。引っ越しのときに指輪はもう捨てていたので私は右手の薬指に指輪をしていなくて、彼は律儀に右手の薬指にしているのかなぁと思うと「奥様にお似合いですよ」と言った店員を思い出した。私も奥様になりたかったですよ、と一瞬だけ思って、でもギターが浮気相手じゃこっちはどうにもならなかったんですよ、とあのときの店員に言いたかった。
 彼のバンドの他に2組のバンドが出て、ライブのチケットの値段は3000円と1ドリンクだった。行くか行かないか分からなかったがCDショップでチケットを買った。これで彼がライブの夜に居酒屋でちょっといいおつまみが食べられたらいいなと思った。
 インスタで彼のバンド名を検索すると彼のアカウントが出てきた。ライブツアーの行く先々での写真を上げていて、その中にふたりで行った場所の写真があった。馬鹿だなぁと思って見ていると右手の薬指にあの雑貨屋で買った指輪を嵌めていてどきりとした。一番新しい投稿の写真に写っている彼を見るとまだ指輪を嵌めていて、あの日話したことを真面目にやっていて、馬鹿なのに真面目で、馬鹿真面目な彼がどんな歌を歌うんだろうと、彼のバンド名をSpotifyの検索窓に入れかけてやめた。

 右手の薬指の指輪は元々「恋人がいます」という意味らしく、本来なら私たちは右手に指輪を嵌めるべきだったのだといまになって調べて分かった。彼の馬鹿にひとつ付き合っていたんだと思うと笑えてくるが、全国ツアーをするような彼が右手の薬指に指輪を嵌めていて大丈夫なんだろうかと不安になってくる。でもそれは私のための指輪で、別れているのにかわいらしくて、早く次の彼女見つけなさいよと自分でもどの目線でそう思っているのか分からなかった。
 彼のライブ当日は雪だった。ライブハウスの前には列ができていて、ライブ会場にはかなりの人が入っているみたいだった。入り口で勝手が分からないままドリンクに引き換えられる紙を渡され、それをすぐにまたドリンクのカウンターへ持っていってウーロン茶と交換した。このカップを持ったままライブを見なくちゃいけないのかと思うと面倒になってすぐにウーロン茶を飲み干すと胃の中から体が冷えてくる。ライブ会場は暖かくて、すぐに暑くなって体からじわりと汗が流れてきた。会場の空いているところへと隙間を縫って入っていくと訳も分からずステージの近くになってしまった。
 彼のバンドの出番は最後だった。ライブの前に準備でステージに出てきた彼を見つけた。あの日のエレキギターを肩にかけて、なにやら音の調整をしている。それを見ていて、私はふとそこに「恥ずかしさ」を感じていないことに気づいた。なんだったら私はかっこいいとさえ思っていた。右手の薬指にはあの指輪が嵌められていて、まだ忘れていないのか、忘れたことに気づいていないのか、ギターを弾く手で光っている。
「こんばんは。今日はよろしくお願いします」
 一言、マイクに向かって彼は言った。いつもと違う声だった。そのとき彼と目が合った。彼の目がなにか言った気がした。でもなんて言ったか分からなかった。言葉のないアイコンタクトなんて私はしたことがない。
 ステージから彼のバンドが一度いなくなって、会場は真っ暗になった。私は眠る前の暗闇を思い出して、少し前まで私には誰かと一緒に眠っていた日々があったのだと気づく。この街に引っ越してきてから、私は自然とひとりで眠っていた。眠る前、誰も喋らない。寝返りの音が聞こえてこない。深夜、なぜか目が覚めても寄せ合える人がいない。暗闇の中、ステージへスマホのカメラを向けた。パシャリ、と音がして、でも画面になにが写っているかほとんど分からない黒い写真が撮れた。写真には今日の日付と時間が載って、私はいまここにいたんだといつか暗闇が証明してくれる。
 ステージが明るくなって、彼は一番にステージの中央へ出てきた。
 彼はもう指輪を嵌めていなかった。



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