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あれからの話だけど / SISの卒制・短編小説

「これ以上物語を増やせば誰にも追い越せなくなるよ」
 いま思えばあれは彼なりの告白の言葉だったと思う。彼がそう言った時、私はその言葉の意味が分からなくて途方に暮れてしまった。どんな言葉を待っていたんだろう。彼は私の目を見ている。私も彼の目を見る。
「あの……。ごめんなさい」
 私は返す言葉が見つけられなくて彼に謝った。いま思えばそれはその時私が一番言ってはいけない言葉だったかも知れない。

 大学3年生の冬、就職活動を春に控えた私は既に仕事をしたくなくなっていた。面接も試験もしたくないし会社説明会だって行きたくない。大学生活が永遠に続くと思っていた。ゆるーく、だらーっと、ただし単位だけぎりぎり落とさなければ無事に続くはずだったのに、単位を落とさなかったせいで私は順調に就活生になろうとしている。
 周りの同学年の人たちが試験勉強や履歴書を書く練習を始めていて、そういうものから目を背けていた私の視界に否応なく入ってきた。みんな就職活動に関わる本をなにかしら持っていて、私はそんな本を一冊も持っていない事実にかなり焦った。だいたいの人は就職活動を終えた先輩から貰えるみたいだけど、私はどの知り合いの先輩からも貰えなかった。先輩たちは就職活動に使った本を既に人にあげたか売ってしまったか、あるいはまだ就職活動中だった。
 大学の書店で買っても良かったけれど、就職活動なんて春になったら始めればいいというスタンスで横目に見ていた本をいまさらレジまで持っていけそうになかった。たまに気になってその本を手に取った時も、せっかくの大学生活なんだしこんなの買うお金あったら遊びに行こうよと言って多分その日の居酒屋で2時間飲み放題に消えてしまった覚えがある。あの日、2時間だけお酒を我慢していれば私は焦らずに済んだのかも知れない。
 気を取り直して家に帰ろうと電車に揺られていると住んでいる部屋の近くに入ったことのない本屋があるのを思い出した。最寄り駅へ歩く道の途中にあって雰囲気よさそうと思っていた。でも入る機会がなかった。実家に本は置いてあったけれど、いま住んでいる部屋にある本らしい本は雑誌か漫画で下手したらコンビニで買えちゃうような本しかなかった。そこはカフェみたいな看板が上がっているのに中を覗いてみると本屋だった。そこに私が求める本は置いていなくても本屋に入って面接を指南する本や就職試験の過去問集を探したかった。探し始めたら私も今日から就活生になれそうな気がした。
 やっぱり就職活動に使う本は置いていなかった。代わりにかわいい表紙の本や見たことのない雑誌や漫画などがたくさん並んでいた。就職活動のスタートを切った満足感に安心した私は面接指南書や過去問集を探すのをやめて純粋に本棚を眺め始める。こんな本屋が近くにあったんだ。
 本棚を眺めていくと私の実家にもあった本のタイトルを見つけた。懐かしいなぁと思って本に右手を伸ばすと知らない左手に触れた。
「あっ、すみません」
 とっさに謝った相手はこの本屋の店員みたいだった。彼は驚いた顔をしていたが私と同じように謝った後、
「なんだか物語みたいですね」
 と言って優しい目で笑って去っていった。お母さんやお父さんよりも優しい目だった。見た目は若そうで、私と同じくらいなのではないか。あんな風に私も笑えたらいいなぁと思った。
 でも彼はなにも本を持っていかずに去ってしまったので、彼は一体なにをしたかったのだろうと思いながら懐かしさのあまりにその本をレジへ持っていった。するとレジにはさっきの彼がいた。
「良かった。さっき嘘をついたんです」
「え? なんのことですか?」
「さっき別のお客さんからその本の在庫の確認があったんですが、ちょうどあなたが手に取るところだったので僕はその人に売り切れてしまったと嘘をついたんです」
 なんだ、彼は仕事の為に本を取りに来ただけでわざわざ手をぶつけてくる変な人ではなかった。
「でもあなたが買ってくれたから嘘が本当になった。ありがとうございます」
 そう言って彼は本を紙袋に入れて私に手渡した。やっぱりこの人、ちょっとおかしい人なのかも知れない。
「私はこの本が買えて良かったですけど、大丈夫ですか、そんなことして」
「だって手がぶつかった時、すごく悲しそうな顔をしてたから。きっとこの本がすごく欲しかったんだろうなと思って」
 私は心底恥ずかしくて「そうですか」と彼に言って本屋を出た。彼には嫌な手の当たり方をして悲しい顔をしたと思って欲しかった。被害妄想みたいに最初から嫌われてしまったと思うような、ネガティブな人であって欲しかった。優しい目をしていて、自信があって、人の表情を見抜く彼の名前はなんていうんだろう。

 本屋の彼は花村街といって、彼のことをみんな「まちくん」と呼ぶらしかった。街のように人が集まる人に育って欲しいと名付けられた彼はいつも誰かと話していて、誰かと話が終わるとまた誰かが「まちくん」と呼んで話を始めるのだった。
 私より歳が3つ上の彼のことを私は「花村さん」と呼んでいたけれど、彼が「まちくんでいいよ」と言うので何度かまちくんと呼んでいるうちに敬語も抜けてしまった。まちくんは大学を出てからこの本屋で働き始めて、その間に1ヶ月に1回水をあげればいいサボテンを2回も枯らして、同棲を始める友達の引っ越しの手伝いに行ったら別れ話が始まって自分だけ他人の新居に何度も荷物を運び、そんな友達のカップルが今度結婚するのだとまちくんはあの優しい目で笑って話した。
「同棲初日で別れるって言ってたのにこの前結婚するって連絡来て。おめでとうだけどちょっと不安」
「結婚式当日に別れるーって言い出しだりして」
「そう。僕もそう思った」
 この本屋に私はまちくんの笑う顔を見に来ている。誰かが勝手に決めた就職活動の解禁日が目の前に来て焦っていても、まちくんの笑顔を見ると焦らなくてもいいような気がして安心した。まちくんが楽しそうに仕事できているなら私も大丈夫だと思えた。就職活動の話をした時に「なにかあったら相談してね」と教えてくれたまちくんの連絡先にまだなにも連絡できないでいる。まちくんにも私の連絡先を教えたので、まちくんから連絡が来てもいいんだけど、私は連絡をもらっても全然構わないんだけど、まちくんと話せるのは本屋にいる時だけだった。

「まこちゃん、今日空いてる? ドライブ行こうよ」
 いつものように本屋でまちくんと話していると急に小声になって私に言った。大学は春休みで今日の予定は本屋に来る以外なにもなかった。ドライブ? ドライブってなんだろう。分からないけどまちくんがどこかへ連れていってくれるならなんだか楽しそうだ。
「はい。行きましょう。ドライブ」
 まちくんにつられて私も小声になった。まちくんのいたずらっぽい笑みで今日の予定が急に埋まった。
 まちくんが乗ってきた車は濃い紺色の軽バンだった。
「これ、本屋の車なんだけど今日は自由が効くんだ。乗って」
 私はまちくんの運転する車の助手席に乗った。飾りはなく、仕事のメモを書いた付箋が数枚貼ってある。最初に仕事済ませちゃうね、とまちくんは言って車を走らせた。これはちょっとよく分からないことになっている。まちくんはいい人だけど、分かっていることより分からないことの方がずっと多い。まちくんは夜、眠る時に部屋は真っ暗にするんだろうか。私は少しだけ明かりがないと眠れない。まちくんも同じように小さな明かりを灯して眠っていたらいいなと思った。
 なにを話したらいいか分からないまま30分くらいして車はカフェの横に止まった。待っててね、とまちくんは言って車を降りる。車の後ろに乗せた本を運んだりカフェから本を持ってきたりしてまちくんは忙しそうだ。
「ただいま」
 まちくんがそう言って車に乗り込んだので思わず私も、おかえり、と返した。
「うちの本をカフェの本棚に置いてもらってて、その本を月に1回足したり入れ替えたりしてるんだ。今日はその日で、車が使えたから」
 それでちょうどまこちゃんがお店に来たからドライブに誘ったんだ、とまちくんはハンドルに向かって言った。
「迷惑だった?」
「迷惑じゃないよ、ちょっとびっくりしただけ」
 私は本屋にいる時とは様子が違うまちくんにびっくりしただけだ。そう自分に言い聞かせた。
「まちくん」
「なに」
「まちくんは笑ってた方がいいよ」
 そう言うとまちくんは車に乗ってからやっと笑った。
「怖い顔してた?」
「してた」
「ごめん」
 まちくんはまた笑った。今度はいつもの優しい目だ。お母さんやお父さんよりも優しい目。まちくんはずっと笑っていた方がいい。まちくんにそのことを話そうとしたけれどやめた。まちくんは笑っている。

 3月になってからいよいよ私は就職活動を本格的にしなければいけなくなったが、まちくんのいる本屋に行く以外のモチベーションはただただ下がっていくだけだった。まちくんは前と変わらず本屋に立っていて、たまに私をドライブに連れていってくれる。まちくんは慣れない運転に集中しているのか、ドライブの間はほとんど話をしなかった。私もまちくんの邪魔をしてはいけないと思って話しかけないようにしていた。ドライブの間、運転に集中しているまちくんの横顔を私は見ていた。
 何度目かのドライブでコンビニに立ち寄った時、私たちは1つの雪見だいふくを1個ずつ分け合っていた。蓋を開けてからスティックが1本しかないことに気づいてまちくんは手掴みで雪見だいふくを食べた。
「まこちゃん」
「なに?」
 私はかぶりついたアイスの餅を伸ばしながら返事した。
「これ以上物語を増やせば誰にも追い越せなくなるよ」
 伸びた餅が千切れてバニラアイスの表面が露わになった。まちくんはなんて言ったんだろう。言った言葉は分かるけれど、それはどういう意味だろう。私の歯形がついたバニラアイスのざらついた表面がほんの少し溶けた。それって雪見だいふくを分け合うことと関係ある?
「えっと、あの……。ごめんなさい」
 しばらく無言になってしまって、それが気まずくて私は謝った。まちくんを見るとまちくんも私を見ていて、その瞬間、まちくんは笑った。
「まこちゃん、口に粉ついてる」
 いたずらっぽく笑って私の口の周りを指差した。
「だって雪見だいふく食べてるから」
「拭いてあげるよ」
 そう言ってまちくんは私の口の周りを拭いたように見せかけて手についていた雪見だいふくの粉を私の顔に塗りつけた。車のバックミラーで自分の顔を見た私は笑って、まちくんも大きな声で笑った。なにか間違えてしまった気がしたけれど、まちくんが笑っていたから大丈夫だった。

 ゴールデンウィークを過ぎた頃から就職活動が忙しくなってまちくんのいる本屋に行くことはほとんどなくなっていた。たまに行ってもまちくんは他の人と話していて顔をちょっと見るだけになってしまった。その間に私は会社説明会に行き面接や試験を受けたりして、かかとのマメを何度も潰し、夏には熱中症気味になってフラフラしながら知らない街を歩き回っていた。
 秋の内定式までになんとか内定を得た私は内定者懇親会で同期になる予定の人たちとお酒を飲んでいた。みんな知らない人たちで、でも同じ会社に入る同い年の仲間だと思うと心強かった。正面に座った彼は松田裕也といって説明会や面接の時に見た顔だった。短髪で整った顔の、いかにも営業職向きといった雰囲気に私は少し押されていた。
「佐倉真琴です。よろしくお願いします」
「よろしくー。こういうの最初に言うのってよくないけどあえて言うね。佐倉さんって顔に感情出やすいよね」
 なんでこいつが正面にいるんだろう。松田裕也にそう言われていま私はどんな顔をしているのだろうと思った。
「笑った方がいいよ。佐倉さん笑うとかわいいから」
 よく知らない人に笑った方がいいと言われるのってこんなに嫌なんだと思って、それからすぐに思ったのはまちくんのことだった。私は無責任に「笑った方がいい」なんて言って、彼は嫌じゃなかったんだろうか。
「そうですか、はは」
 私は乾いた笑いを松田裕也に送って乾杯で出されたビールの残りを一気に飲み干した。苦い。ビールは苦手だ。苦くて炭酸が入っていて泡立っていて、その泡は口の周りにまとわりつく。まちくんはビールが好きだろうか。嫌いだったらいいな。
「松田さんって、夜寝る時、真っ暗にして寝ますか?」
 私は思わず口走っていた。
「え? うん、真っ暗にする」
 良かった。私と一緒じゃなくて良かった。

 仕事をしたくなくて鬱屈としていた去年の冬と違って今年の冬はただ就職先が決まっているというだけで晴れやかだった。すっかり行かなくなっていたあの本屋へ思い出したように行ったらまちくんはいなかった。秋にはここをやめていて、いまはカフェで働いているらしかった。名前を聞くと聞き覚えのあるカフェで、場所を調べてみたらまちくんが最初にドライブに連れて行ってくれたところだった。
 少しだけ顔を見に行こう。就職先が決まったことを伝えて、少しだけお茶を飲んだら帰ろう。
「まちくん」
 私の口が勝手に彼の名前を呼んでいた。今日、会いに行かなくちゃ多分もう会えない。
 教えてもらったカフェに行くとまちくんがいた。お店の外からまちくんが見える。まちくんは今日も笑顔だ。本屋の人から教えてもらったけれど、まちくんはこのカフェの店長と結婚したらしい。結婚して、同じお店で働く為に本屋をやめた。
 まちくん、私、ちゃんと就職先見つけたよ。1回くらいまちくんに連絡してみればよかった。まちくんにすがるのを装って、本当はなにも答えを求めないで、ただ連絡を取ればよかった。
 スマホを取り出してまちくんにメッセージを打つ。
『まちくん。結婚おめでとう。私も無事に就職先を見つけました。本を作る会社です。まちくんのカフェにも私の会社で作った本が並ぶといいな。じゃあねまちくん。物語はここで終わりです』
 そろそろ行かなくちゃ。まちくんに気づかれないように私はカフェの前を去る。車で30分かかった道のりは電車で半分くらいの時間で着いた。
 まちくん、わざと遠回りしたのかな。







 スピンオフの”Bonus track"編はこちら



 こちらはSISの卒制で『とびきりのおしゃれして別れ話を』をもとに書きました掌編小説です。
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