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更地になりたい


寅さんになりたい、って願望には、物凄く共感します。だって、ああいう「帰る家のある放蕩息子」みたいなポジションは誰しも憧れるんじゃないでしょうか?だから、あんな人気シリーズになったわけですし。

車寅次郎は今で言うと反社会勢力だが、あの時代はそういう人が主役の「家族ドラマ」でも許されたしあれだけの大ヒットになった。

で、思うんですが「男はつらいよ」というシリーズは、放蕩者の車寅次郎という、家庭の枠に入りきれない人間が主役になることで成立している擬似家族的な物語なんですよね。
おいちゃん夫婦と妹のさくら、という血縁者はいるんですが、御前様に蛾次郎なんかは完全なる赤の他人ですし、裏の工場のタコ社長なんかはあくまで隣人ですよ。さくらの亭主の博はタコ社長の工場の社員だし。
基本的にみんな他人なんですけど、「寅さんが拗ねないように」とか、「また寅さんがヤケを起こさないように」とかそういう一点で協力し合い支え合う、という疑似家族を形成していくんですよ。
奇しくも寅次郎の稼業のテキヤが親子兄弟の盃を交わして擬似家族を形成するかのように、柴又の人々は寅次郎という厄介者との関係を通して疑似家族のように連帯しているんです。
これは、同じ松竹の小津安二郎の描いた正統派の家族ドラマに対抗するために山田洋次が生み出した巧妙なギミックだと思います。
つまり、赤の他人で家族ドラマをやる。血縁の薄い家族ドラマをやる。そのことで、かつての落語の長屋ネタのような人情物語を生み出せるのではないか、という見事な計算があったのだと思います。

そんなわけで、正統派のホームドラマに見える「男はつらいよ」シリーズという作品も、実は「寅屋」もしくは「くるま屋」という甘物屋さんとその近所の住人たちの群像劇が家族のように見えているだけで、純粋な家族ドラマではなかったりします。
そんな「男はつらいよ」ですらもう、時代遅れなものになってしまった日本において、正統なホームドラマ、家族ドラマって残っているのだろうか、と考えた時に思い浮かぶのが「サザエさん」と「ちびまる子ちゃん」なんですよね。

フジテレビの日曜夕方を支え合う両巨頭。一時期は不動のサザエさんに様々な新作を組み合わせてたけど、いつしかまる子も不動の地位に。どっちが強いのか?は野暮な質問。

両作ともに日曜日の夕方のフジテレビで連続して放映される、というところにこれらの作品の本質が集約されていると思います。つまり、この二つの作品は同じくくりになってるんですよ。つまりは、「かつてあった大家族ドラマ」というファンタジー枠なんです。

何世代も同居する大家族が珍しくなった現在、この二つの作品が見続けられている理由は、リアルでないことが逆にファンタジーとして機能してしまっているからではないでしょうか。二世帯住宅でもなく、一つの家に何世代もが同居していることの奇異さは、半ば時代劇を見るような感覚で受け入れられているのではないか、と個人的に考えたりしてしまいます。
だって「ビッグダディ」に限らず、リアルな大家族を取り上げた番組に需要があるのも、“現実ではお目にかかれない存在”だからじゃないですか。

現実では存在しないが、物語として存在する。フィクションとしての理想郷なんて、まるで古の日本における唐天竺のような存在がホームドラマなのではないでしょうか。
かつての長屋のように、他人同士が家族のように連帯する都会の暮らしも無くなり、一軒家で暮らす田舎の大家族という図式も崩壊しました。
俺の育った地域は親世代が自分たちの理想とする核家族を築くためのベッドタウンのような場所でしたが、そこで生まれ育った子供たちの多くは地域を離れ、他所でさらなる自分たちの核家族を築いています。
残されたかつての核家族の長が鬼籍に入った後、その根拠地を引き継ぐ子供たちが現れず、更地にされている住宅地がちらほらと見受けられます。
櫛の歯が抜けたかのように散見するそうした空き地を目にするたびに、そこにあったであろう現実にあった“ホームドラマ”の数々を想像してしまうのです。


実家の前のスペースからここ三年くらいで三軒の家が無くなった。空き地はこの辺の地主が管理してる。ここ以外でも、住宅地に突然更地が出現する光景を目にする。

「ドラえもん」で、のび太やジャイアンたちが遊んでいた空き地のような光景は、昭和四十年代の高度成長の頃にあった風景で、現在ではああいう空き地はアニメの中にしか存在しない、と一昨年亡くなった”みなもと太郎”先生が指摘されていました。
しかし、そうした現実をさらに飛び越え、かつて開発され尽くしたはずの住宅地の中に空き地が生まれつつあるのです。そこまで予見して藤子不二雄先生はあの空き地を描いてはいないはずですけど、現実の家族や住居の終焉が、旧時代のSFホームドラマの風景をリアルにトレースしてしまっているところに、なんとも言えない侘しさと面白さを感じる次第です。

新年早々、なんだか景気の悪い話になりました。しかし、この往復書簡で毎度のように書いているのは、「失われていくもの」ということです。
物は失われて人は移ろいゆく。それは世の常である、ということです。
ホームドラマというジャンルが日本から失われたのであれば、新たなるホームドラマが生まれるはずなんですよ。
「万引き家族」なんて、疑似家族の犯罪集団という、より強固な結びつきじゃないですか。もう、ああいう犯罪集団の“絆”とか朝ドラとかでもやるべきじゃないでしょーか?
昔の東映実録ヤクザ映画みたく、「この物語は実在する事件を基に作られたフィクションです。現実の団体とは一切関係ありません」みたいなキャプションで始まる朝ドラ観たいですね。そういう内容なら、ヨーリーもマッチングしそうな役柄とか生まれそうじゃないですか、朝ドラに。
とか、そんなわけで、世の中面白くなっちまえばいいなー、とか願いながらこの文章を締めます。

旧正月を迎えて、ヨーリー及び、neeさん、真喜屋さん、そして師匠。さらには少ないながらも読んでくださっている読者様。のら猫往復書簡に関わる全ての皆々様のご多幸と健康を心よりお祈りいたしております。


武富一門 ryo_kin

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