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記者は政治家と会食してもOKなのか?

以下の文書は、米国の大学で2020年秋学期に受けたジャーナリズム史の授業で提出したレポートです。出羽守炸裂!

私は日本の新聞社で記者をしてきた。米国で学んでいるのは、ここで得た知見を帰国後に生かすためだ。したがって、私は米国のジャーナリズムを学びながら、常に日本との違いや共通点を探している。

日本の新聞業界は経営的にも、一般社会からの評判に関しても危機的な状況にある。後者についていえば、近年になって社会からとりわけ厳しい目が注がれているのは、取材対象である政治家や役所の幹部らと記者が親密になることの是非である。米国では「アクセスジャーナリズム(access journalism)」と呼ばれる問題だ。

「癒着」を疑う声

具体的には、例えば大手の新聞社やテレビ局の記者たちが、前首相の安倍晋三と頻繁に会食する機会を持ちながら、「オフレコ」の約束を守るため、その場でどんな話があったのかを全く報じていないことが挙げられる。政治家とマスコミの癒着が疑われているのである。

安倍は2012年の就任後、彼の支援者が国から土地を不当に安く譲り受けたとされる問題や、政府が彼の支援者たちを多数招いた宴席を開いて国費で接待していたとされる問題など、様々なスキャンダルに見舞われてきた。だがこれらは決定的なダメージとはならず、彼は7年8ヶ月の間、首相の座にとどまった。これは日本の歴史上、最も長い在任期間だ。

首相と親しい記者たちが厳しい批判を控えていることが、彼が長く首相を続けられた理由のひとつだと見る人がいる。例えばNHKの記者だった立岩陽一郎は、「総理大臣と記者との会食が引き起こしている問題の深刻さに気付かないメディア」と題した記事を2020年1月に発表した。「この安倍総理と『くされメンバー』との会食は度々批判されてきた」「国民の多くが抱いている疑問に総理とその政権が応えていない中で、メディアが取り込まれているという印象が強くもたれている」と、彼は批判した。

日本では何かを批判する際に、より優れているように見える事例、とりわけ米国や西欧諸国での事例を取り上げ、その落差を際立たせることで問題の大きさを強調するという手法がしばしば見られる。これは約150年前に「サムライの時代」が終わり、日本人が近代化を目指すようになってから、私たちが基本的にはいつも米国や西欧諸国を手本としてきたことの現れである(ついでに言えば、私がいま米国で学んでいるのにも、同じ背景があるだろう)。

立岩も記事の中で、彼がアメリカン大学で学んだ経験をもとに、首相と記者が会食することは、米国のジャーナリズムでは「記者の倫理違反」になると断言した。また、USAトゥディで長く記者をしていたリン・ペリー教授の以下の言葉を紹介している。

「取材先と親しくなって得た情報で記事を書いても、それは評価されません。それは単に、相手に利用されているだけとみなされる危険も有ります。そうなったらジャーナリストとしては終わりです」

こうした批判は立岩以外からも出ている。「週刊ポスト」は2015年の記事で、記者たちが安倍と会食することを問題視した。「例えばアメリカなら、メディアの人間が政治家と会う時は、たとえ社長でも、あるいは相手が地方議員であっても『コーヒー1杯』が上限で、それ以上の飲食は『癒着』『ジャーナリズムの腐敗』と見なされる。日本のメディアのお偉いさんたちは世界の非常識なのである」と、記事は指摘した。

だが少なくとも、米国の記者が政治家と「コーヒー1杯」を超えた交際をすることが全くないとは言えない。ニューヨークタイムスによる「報道・論説部門の価値観とその実践のためのハンドブック」は、次のように書いている。

「情報源の開拓は不可欠なスキルであって、それは通常の業務時間ではない非公式な場面で最も効果的に行われることが多い」

「スタッフは、食事や飲み会で非公式に情報源に会うことがあるかもしないが、妥当な仕事と個人的な友情の違いを心に留めておかなければならない。たとえば市役所担当の記者が市議会議員と毎週のようにゴルフを楽しんでいたら、たとえコース上で仕事の話をすることがあったとしても、親しい友人であるかのように見られる危険性がある」

つまりニューヨークタイムスは、取材相手と飲食することを禁じてはいない。ただ、取材相手と親密になりすぎることは控えるべきだと言っている。「この問題には、はっきりしたルールはそぐわない(this topic defies hard and fast rules)」のである。

コネはやっぱり大事

結局は、取材現場で実際に何が行われているのかを知るには、経験者に話を聞くほうが早そうだ。そこで、AP通信とワシントンポストで長く記者をしていたボストン大学のクリス・デリー教授に話を聞いた。

彼はまず、「大きな報道機関の振る舞いと、そこに属する個々の記者の振る舞いとを区別することが、大切なのではないか」と言った。その上で強調したのは、コネを持った記者の重要性だ。

「そういう入り口(access)を持った、権力者をファーストネームで呼べて、真夜中に電話一本で事実確認ができる記者を、少なくとも一人でも持っておくことが、とても重要なんです」

でも大切なのはそういうタイプの記者だけではないと、彼は言った。「大きな報道機関には、入り口を持っていないし、そのことを気にもしていない、大統領とスタッフを調べ上げようとするアウトサイダーも必要です」

ここでデリーが言っていることは、日本のジャーナリズムにも完全に当てはまる。新聞社には政治部という部署があり、政治家から信頼されることによって、つまり彼らの「友人」になって情報を得ようとする記者がいる。一方で、新聞社には社会部といわれる部署があり、政治家と深く付き合うことなく、彼らのスキャンダルを追いかける記者もいる。

では、政治家と親しくする記者たちがいることは、日本と同じように米国でも当然のことなのだろうか。デリーによると、かつてはそうだったが、今は異なるという。きっかけの一つは、1963年に暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領だった。

「ケネディが死んでから、かなりの幻滅感と、新たな理解がありました。二つのことについて、多くの情報が出てきたんです。彼の健康状態がどれだけ悪かったのかということと、彼がどれだけ妻以外の女性と浮気していたのかについて、です」とデリーは話した。

「それに加えて最後にわかってきたのは、ほとんどのワシントンの記者たちが何もかもを知っていた、ということです。でも彼らは彼(ケネディ)のことが好きだったし、入り口が欲しかったし、彼と一緒にお酒を飲みたかったんです」

ケネディと記者たちの親密な関係は、ポップカルチャーでも描かれている。スティーブン・スピルバーグ監督による2017年の映画「ペンタゴン・ペーパーズ」では、ワシントンポストの編集幹部ベン・ブラッドリーが、「私はジャック(注:ケネディ)を情報源と思ったことはなかった。友達と思っていたんだ」と告白し、以下のように続けた。

「私は間違っていた。ジャックはわかっていたんだ。私たちは両方ではいられない。選ばなくちゃいけないんだ」

「ペンシルバニア大通り(注:ワシントンDCにある街路。合衆国議事堂とホワイトハウスを結んでいる)で、みんな一緒に葉巻を吸っている時代は終わった」

デリーの話に戻れば、政治家と記者たちが会食する機会は、今では多くはないという。彼自身が取材相手から夕食に招かれたのも、おそらく1980年代が最後だ。招待を受け入れたか断ったのかすら、覚えていない。

デリーによると、今では記者たちが仮に取材相手と食事をするにしても、それは夕食ではなく昼食だ。しかも料金は割り勘で、貸し借りがないようにするのだという。また、社会全体で健康への意識が高まったほか、家族と一緒に過ごすことが大切だという価値観が広まったこともあって、勤務時間外に政治家と酒を飲んだりトランプをしたりする記者が減ったのだという。

この点は日本とは状況が異なるように思える。第一に、私は新聞社の上司や先輩たちから、取材相手と親密になることを奨励されてきた。彼らに食事代を支払わせてはいけないとは言い聞かせられてきたが、私が彼らの分を払って貸しを作ることは止められてこなかった。

第二に日本は、過労死という言葉を生んだ国でもある。健康への意識は高まっているとはいえ、報道関係者の労働時間の長さは悪名高い。2013年にはNHKで、1ヶ月間の超過勤務が159時間に達していた31歳の記者が、心不全で死んだ

批判は米国にも

デリーの話をまとめると、米国では日本と比べ、政治家と親密になる記者たちの数は少ないようだとは言える。それでも、日本と同じような批判が全くないわけではない。例えばニューヨークタイムスでトランプ政権について精力的に取材し、2018年のピュリッツァー賞を受けたマギー・ハバーマンを「アクセスジャーナリスト」として批判する人もいる。

メディアやPRなどに詳しいライターのジャスティン・ジョフは2019年5月、ハバーマンについてこう書いた。「大統領執務室でトランプの隣にいて微笑んでいる彼女の写真が出回っているが、確かにプロフェッショナルにもジャーナリスティックにも見えない」

もっとも、ハバーマンは彼女自身をアクセスジャーナリストだとは思っていないようだ。彼女はワシントンDCにあるシンクタンク「戦略国際問題研究所(CSIS)」によるインタビューで、トランプが彼女について語ったという、以下の印象的なフレーズを紹介している。

「マギーは二人いるんだ。一人は私と話すほうで、もう一人は私について書くほうなんだよ」

これが事実なら、彼女はまさに理想の敏腕記者と言える。

ただ、あくまで映画とはいえ、ベン・ブラッドリーの言葉も忘れるべきではないだろう。

「私たちは両方ではいられない。選ばなくちゃいけないんだ」

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