虚構の向こう側へ行きたい

超えたい壁を明確にして、これから先の10年間をどう過ごそうかと考えた。

昔から勉強が好きで(でもテストは嫌いで)、単純に何かを学ぶことが好きだった。

小さい頃に母から「知識は荷物にならないからいくらあってもいい」と言われた。それを今でも覚えているくらいには、そういった環境に恵まれていたんだろう。

義務教育から、大学、そして新社会人あたりまでは”これを知っとかないとまずいことになる”ことが分かりやすく目の前に提示されていてそれをやりくりすることで充分だった。

しかし、そこそこ全体像が見え、いざあなたも社会の担い手側で、ホスト側に回ってくださいという立場になると、途端に”教えないとまずいことになる”事でいっぱいになる。

たった30年で完成するほど単純じゃないだろう。

意識が高いわけでも、高尚な身分でもなく、知的好奇心にただ足が生えただけの生命体だ。

国語、数学、英語、理科、社会…

今思えば学生時代にもっと勉強しておけば良かったと思う事だらけで、その後悔は一生消えることはない。

もちろん等価となる経験は沢山あって、だからこその今、なんてありきたりな事をありきたりには思うから後悔してないっちゃしてないんだけど。

それでも大人になって勉強するほどになんであの時気づけなかったのかと思わずにはいられない。

勉強とは翻訳だ。

思考を言葉に変換する。
数式に変換する。
外国語に変換する。
機械語に変換する。

本を読み、文字を使って時空間を超えて会話する。

研究し、論文を書いて、未来に知恵を届ける。

歴史と対話し、未来へ語りかける。

そうやって新しい言語を学び、その世界で沢山の知恵とコミュニケーションをとり、世界を知りたい。

もう一つ越えてみたい壁ができた。

虚構の壁。

ヒトは虚構の力で進歩してきた。

見えない線を国境と信じ、重さのない紙きれを貨幣と信じ、そして今、目には見えず、重さもない仮想世界に生きている。

虚構とはすなわち想像力。

ありのままに生活を語るのは得意だったが、それだけに物語を作るとただの自分が増えるだけで面白くないだろうと思っていた。

しかし、ひょんなことから物語を紡いでみると案外、書けることに気づいた。

そして何より、物語を創作することは虚構の世界を自由に駆け巡ることと同じだと気づいた。

現実の悲劇はせめて、虚構の世界では希望の話に。それを読んでくれた現実で、何か実りにつながるならこれ以上の喜びはない。

なんと贅沢な遊びだろうか。

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